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中埜博先生とパタンランゲージについて対談しました。

8/19 にアレクザンダー氏にも直接師事し、書籍も多数出版されている中埜博先生と対談させていただける機会をいただきました。

対談の背景

 今回の対談の経緯は以前noteのこの記事を書いたところから始まりました。

このnoteをきっかけに高柳(ガオリュウ)さんにお声がけいただき、私のモヤモヤや理解が追いついていないところを中埜先生に直接ぶつけさせていただくというなんとも自己満足的な企画ですw

今回このnoteでは改めて、このイベントで中埜先生の言葉を紡ぎながら振り返っていこうと思います。

パターン,Wiki,XPとアレクザンダー氏

まず、私が手に取ったこの書籍に私が感じたのは「パタンとは何か」「パタンランゲージとは何か」というその前に「どうしてパタンが生まれたのか」「建築の席からどう広がっていったのか」といった歴史をたどって学んでいけることです。

 これに対して中埜先生も「組織を歴史的にみるというのは大事だと思う。パターンとはなんぞやという以前に、なぜそういうことが生まれてきたというところから。」と共感いただき、次のようなお話をいただきました。

丹下健三とアレクザンダー

 東京オリンピックの代々木体育館を設計した丹下健三が大阪万博のときにアレグザンダーを呼んだ。建築家である彼がまだ大学を出たばっかりでハーバード大学の助教授のアレクザンダーをなぜ呼んだのか。そして、1つの企画展を任せたのか。

 丹下健三氏は「これからはコンピュータでデータをプロセスすることが主流になる」と見抜いていたとのこと。

この書籍で触れていた建築からWikiへ、そしてXPへ繋がる流れを丹下健三氏の中でも抽象的ではあれ、描いてい田ということがこのことからわかります。

パタンランゲージは難しい。

 というわけで、この書籍を読んで、「なんとなくわかった。歴史をたどった。・・・じゃあどうしよう?」というのが私の中で正直な感想でした。

これに関して中埜先生は「パタンとは何か」「ランゲージとは何か」を解説してくださいました。

パタンとは何か。

中埜先生によると、日本語のパターンには均質的なイメージがあるが、元々は"パン"(汎、つまりパンアメリカのパン)という考え方からきているとのこと。

これは均質的な繰り返しではなく"多様な繰り返し"という意味。

具体的には人の人生は朝起きて夜寝るという全体としては均質的な繰り返しのように見えるが、その中にそれぞれ異なった生活があり、多様性があるということそれがパタンの表している部分とのことでした。

 もう一つの側面は、パターン認識という言葉に代表される、"人間独特の全体性を認識する能力"であるというお話です。

例えば、ペットボトルをペットボトルとどう認識しているか。これは長年コンピュータでは難しいと言われていますが、人間が当たり前にできている部分です(近年のAIの発達でコンピュータにも可能な範囲が増えましたが、これを提唱したのは1960年代の話です)。

 このことからアレグザンダー氏がパタンランゲージを考えたときは、"人はひとつのものの全体をみることができるという意味"を込めてもパタンという言葉を使ったそうです。

ランゲージとは何か

 一方で、パタンだけではただ認識している状態。これだけでは誰かに伝わるものではありません。

 パタンにランゲージという言葉を加えた意味としては、これによりアウトプットが行われ、そこにコミュニケーションが発生し、自由度が生まれます。つまり、ランゲージが入ってきて初めて人に伝える、アウトプットできるもの。
 そのため、「パタンランゲージ」としてセットで定義されているというのがお話を聞いた私の理解です。

全体性とデータの収束。そこからくる偶然という名の必然

 パタン。ランゲージの背景にはアレグザンダー氏の理論として「データの収束は、なんらかの条件、ルールがないと生まれない」という気づきがあり、これは彼も博士論文としてまとめています。

 これは現在の統計学に通じる"複雑なデータの中に塊が生まれる"という側面でデータの裏に抱える矛盾に起因しています。

 具体的には「家族と一緒にいたいが家族と離れていたい」といった複雑な平衡状態をコンピュータ上で描くことを考えていったとき、そのようなデータの中に塊が生まれる。その塊を図式、目に見える形で表現(アウトプット)できると考えた。

 つまり、モヤモヤしたものを一定のルールを守ってアウトプットすることで初めて目に見える状態になるというのがパタンランゲージの背景にあるようです。

 一方で、ただ、単純に統計をプロットしただけの因果関係ではなく、偶然の組み合わせが面白い関係を生むということも気づきました。いわゆる風が吹けば桶屋が儲かるのようなものです。

 統計的な塊だけではなく、塊と塊の重なりも存在し、そこに着目しました。ただの塊だけであれば、ツリー構造で表現できるものの、実はそんなに単純なものではないという思いを1960年代にまとめ、"都市はツリーではない"に結実しました。なにせ、偶然や間違いが混入したほうが面白いという発見は今の我々にも覆せないでしょう。

 現在に目を移すとどうでしょう。コンピュータやプロダクト開発はいまだにツリーかもしれないと中埜先生は述べます。

 一方で私が感じた面白い点は"塊の重なり方偶然を見つけ出す"というのもパタンとして捉えられます。つまり裏を返すと偶然と言いつつも必然であるのでは?と感じました。

 これに関連している部分で「コンピュータは人間にどれだけ近づけるか」という話があります。ドラえもんや鉄腕アトムの世界観です。

 ただ、中埜先生はコンピュータの発展形の世界は実はそうではなく映画「マトリックス」のようなもので、社会を構造化するところにコンピュータが寄与する。これこそがコンピュータの発展形であり、それは恐怖でもある。と語っていました。

パタンランゲージをどう捉えて自分ごとにすれば良いか

 中埜先生はパタンランゲージを"人間的な体験から導き出した変革"とも捉えてほしいと語ります。パタンそれぞれが示す言葉尻やタイトルではなく、そのパタンを用いてどう変わっていくか、そこにどう歴史が刻まれていくか。それを受け止めてこそ、それぞれの世界(多様性の繰り返し)が見えてくるということと受け取りました。

 一方で私は「パタンランゲージという形で言葉を定義することで、逆に言葉尻だけを取ってしまい、誤解を生んでしまうのではないか?」という問いを伝えさせていただきました。すると先生はそれに対し、このように答えてくれました。

 パタンの言葉が正しく伝わるかといえば、もちろんそこに誤解は生じる。特にパタン1つ1つ似て対しての誤解が生じるのは当然である。

 だからこそ、「パタン・ランゲージというのは物語である」と捉えている。

いろいろなチャプターがあり一つの物語として完成する。全体でひとつの物語として人の感性に呼びかけ、受け取った人が自らを変革したいという意思を持つことがパタン・ランゲージの本質。

 パタンを結合させ、人を感動させ、動機付けする。さまざまなパタン・ランゲージを繰り返し生成することで世界は紡がれていき、それこそがパタン・ランゲージが全体性を持っていることを意味しているとのことでした。

 これは映画と同じで"なんとなく説明し難い高揚感"のような部分と部分の断片ではなく、全体性を持って人に迫ってくるもの。だからこそ感動を生むものであると語ります。

 そしてパタンを受け止めてどう実行するかはそれをどうするかは読み手に任されており、変革は読者が問われるものである。

 パタンを読んだら「僕だったらどうするか」を考えることが大事で、それは「世の中全部を変える」という大きな意味ではなく、自分おみじかな変革を起こすということ。

 人は毎日毎日生き、毎日毎日死んでいる。そして毎日毎日変革している。それが生きているということであるからこそ、そこに通ずるものと表現されました。

 そのため、全体性を持っているかどうかは感情を持っているかどうか。命のエネルギーを作れるかどうかにつながっているという力強いメッセージを感じました。

自分ごととして受け取る

 話は少し変わりますが、パタンランゲージを自分ごととして受け取るためには時代に制限されず自分はどうかということを考える必要があります。これは時に異端児と呼ばれることもあるでしょう。これについては"中動態"というたとえで以下のように語っていただきました。 

 中動態という考え方がある。そのままの現象をそのまま受けとるということ。現代はそれが消えつつある。その現象を自分の中に反射し自分の中で受け止めるということ。

 主語・述語という関係は主語として誰かの責任を問うという世界。しかし、現在ではこの意識が強すぎて、必ず何かの原因があって結果があるというのが当たり前になってきてしまっている。でも、中動態の考え方は本当はいまだに存在する。

これらは「コミュニティーと個」「内と外」「暗黙知と形式知」にも似ている気がしました。

 中埜先生が建築を考えるとき家族全体と話氏をするそうです。その方法として、どうしてそう思ったかを聞いたり、時に「目をつぶって話して」ということもあるようです。

 そうやって聞いていくと、普段考えてしまっている余計なものが取り去られ、嫌なものは嫌と素直に言えるようになり、あるところから共通なものが見えでくるそうです。

 その結果、同じ考え方を持っている人が共感し、全体性に入っていくことができます。全体性は言葉で考えることではなく、素直にわかるもの、心底感じているものであり、人はみなそういうものを持っていると言います。

裏を返すと素直な気持ちを伝えること、引き出すことができないと全体性に入っていくことはできないともおっしゃっていました。

 このことについてはご自身の体験として、ボブ・ディランやエミネム、ゴッホやピカソといった芸術家の作品に触れたことやスポーツ応援における一体感などのお話をもとに解説いただきました。

これは全体性を持ったときに感動する。そしてそれは自分の中のある部分にそれが共鳴するということと受け取りました

全体性と全体主義

 また、誤った捉え方として"全体性"と"全体主義"を同一のものと判断されることが多いようです。

 - 全体主義は一人の価値観を全体に押し付けるもの。

 - 全体性は一人ひとりが生み出すもの。

 ということで、全体性のから感じる感覚として"美学"の例えを伺いました。

美学とはまさしく形式知です。なぜなら、美しいと認識しているものと同じものを見ると美しいと思い、本当の美しさは大人であろうと子どもであろうとわかるもの。これは全体主義で矯正されたものではなく、一人一人の心に生み出されるものです。

 そして、現代は形式知が先行しており、形式知には前提条件があり、その上で、共感があるのです。

 これは必ずしも血のつながりは必然ではなく、組織でも存在します。

 形式知の前提条件は他者の喜びは自らの喜びということで、裏を返すと自分たちに近いものに人は嫉妬し、喜びとならない。実は近すぎない距離感の他者の方が喜びを共有しやすい。と中埜先生は語ります。

 さらにはパタン・ランゲージが重要なのはそれが形式知だからとも語ります

 パタン・ランゲージはそこに歴史あり、。その人らしさが伴う。

そのために嫌なことは嫌というエゴイスティックな面が必要とのこと。

 また、パタンひとつひとつも全体性を意識しており、全体と調和しなければいけません。

 これを「敷地の修復」パタンを例に、

 形式知は知識ではなく、問題に対応する方法であり、これが独創性にもつながる。自分が十全であると感じても、世の中の十全さとあわない。それを修復していく行為こそが重要で、そのアプローチは人によっていろいろ違う。その人にしかできないことがあり、それを理解することが重要。

とおっしゃっていました。

新しいパタンが生まれる時

前述の通り、パタン・ランゲージは形式知そのものです。では、新しいアイディアやパタンはどこから生まれるのか。それは"この形式知の中にないものが他者に語られたときに生まれる差分"がポイントになります

今までにない差分が見えてきた時には徹底的に尋ねること。その結果そこに新しいアイディアが生まれると中埜先生は語ります。

 また、こういった差分を認識するためには前提としての知識がないと差分が見えてきません。また、異なる点が存在しないと差分は生まれません。組織においてそれを発見しやすいポジションというのは「組織と組織」や「チームとチーム」をまたがっている人材がに萎えるというお話でした。これは時に中間管理職であり、チームリーダーであり、兼務をしている人材かもしれません。その人が勇気をもって下の人がどうやれば自由になるかを考えることが大切とのことでした。

 そのためには全体性を生み出すための知のオープン性の確保が必要で、オープンにしないとその差分に気づけない。つまり、新しいアイディアやパタンは生まれないのです。

 さらにその差分を発見するためのアクションとしては一人一人に尋ねてみればいいと言います。

 それにより、共通項と差分、その原因を明確にでき、その結果、共通項は見えてくるし問題や解決する本質もみえてくると中埜先生は語ります。

 あとはやってみるという勇気があるかどうかが今度は大切になってきます。

私が学んだこと

私は今回の対談を前に「どう暗黙知を形式知として残していくか。」という手段に固執していました。

 しかし、自分の中でもわかっていることがあって、それは

「ナレッジを残していくことにモチベーションはないだろう」

というものです。

その理由として、「自分が組織にいる時間は一瞬しかない」と捉えるとそこにリソースを注がないであろうという点が大きいでしょう。

今回の対談を受けて、形式知を残すモチベーションは「全体性」に関わってくる。と感じました。それはパタンランゲージは断片的に捉えるよりも全体をストーリーとして捉えることで高揚感や情熱が湧いてくるといったように、企業においてのナレッジの共有もその全体性とビジョンとして受け取ることで初めてモチベーションが生まれると感じました。

 とはいえ、1つ1つのパタンを生み出すためには知見や身体的な知識が必要でそれがないと差分が取れません。ただ、大抵の属人化や暗黙知の積み重ねはドメイン知識が多い人に偏るので、この点は問題ないでしょう。

では、それを解きほぐし、オープン化していくにはどうしていくか。第一ステップは本音で話すことで、これは1on1に近いかもしれません。テクニックとしての目をつぶって話してみるというのもありでしょう。

 これが積み重なって共通項と差分が見えてくるといよいよもって新しいパタンが浮かび上がってくるのでしょう。そして、それが複数になると全体性が見えてストーリーが見える。

 その結果、暗黙知が形式知に代わり、そこには全体性に伴うストーリーがあし、情熱が含まれているので、1から学ぶ人も情熱を傾けて理解できるのかもしれません。

まずは、その部分に注力していこうと思います。

最後に

今回のこの記事はイベントの振り返りということで抜粋したものになっています。本編はこちらでアーカイブいただいてておりますので、こちらをご覧ください。

また、中埜先生と今回の企画をしてくださった高柳(ガオリュウ)さんとRSGT2020のプロポーザルを出しました。

こちらでパタンランゲージを用いたワークショップを行いたいと思うので、興味がある方は是非とも、(サイトからアカウントを作成し、)LIKEを押してください。


主にPjM、PO、セールスエンジニア、AWS ソリューションアーキテクトなどを務める。「映像業界の働き方を変える」をモットーにエンジニア組織を超えたスクラムの導入、実践に奔走。DevLOVEなど各種コミュニティーにおいてチームビルディングやワークショップのファシリテーションを行う