哲学カフェで学んだこと テーマ「〇〇らしさ」
はじめてのnoteですが、これからは大学生である私が人生の中で思うことを皆さんに共有したく書かせていただきたいです。
9/30.10/4に都内の大学で私の所属するサークルが開催している「哲学カフェ」に参加しての感想です。
そもそも「哲学カフェ」とは?
ある一つのテーマについて数人で各々の想いを共有していき、テーマを深くまで熟考していくことです。初対面でも知り合えでも関係なく自分の思いをぶちまけられる対話の機会です。
そして今回参加した哲学カフェのテーマは「〇〇らしさ」です。
私自身、このテーマについて考えた時、まず先に「男らしさ女らしさ」を思いつきました。昔からある言葉ですね。(昔といっても私はまだ10代ですが)私はこの言葉を聞くとすぐ出るイメージが、「男らしさ」といえば体格のいい身長の高いカッコいい人であり、「女らしさ」といえば色白なすらっとした背の高くない人でした。(これに当てはまらない人をらしさと言わないということはないです。)ですから、実際自分の「男らしさ」のイメージと比較して、「自分はもっと高身長でカッコよく生まれたかった」と考えたことが何度もありました。
ただ、最近思い始めたのが、この「男らしさ女らしさ」にとらわれていては自分を理解することは難しく、なおさら相手を理解することは不可能だということです。誰かのことを理解する必要がないといえばおしまいですが、自分の人生において人との繋がりはなくてはならないものです。自分自身大学に入り、とてもお世話になっている方がいます。その方はいつも自分を肯定してくれて、そして我を強く持っています。そんな方を理解するためには「らしさ」という壁があって良いわけがないのだと感じました。私は男女関係なく人を自分と比べたがる性格でした。(自分に自信がないあまり、誰かに勝っていたいという優越感を欲していました。)どんな人と出会っても、「この人にはこんな悪いところがあるからよかった、」と考えてしまっています。口には出しませんが、「男らしさ女らしさ」を基準にその人を測ってしまっています。そのくせ、その人に対してそれ以上興味はなく、その人の深みを理解しようとしない。なんてやつだと、つくづく思います。だから、このテーマに触れたことで、そんな基準はいらないと感じました。
「男らしさ女らしさ」という言葉を使うだけで、誰かを褒められる分、簡単に馬鹿にすることもできます。なんでそんな簡単な言葉で人間を二極化させ、隔たらせるのか。(人間の性差を認めることは大切であり、「男らしさ女らしさ」とはまた別だと思います。)最低なことは、その言葉を使うことで、男性が可愛らしい服を着たり、女性がメンズライクの服を着たり、男性がメイクをしたり、女性が声が低かったり、男性がスカートを履いたり、女性が坊主にしたりすることを否定もしくは嘲笑することです。実際、私は何年も前に私の兄がスカートを用いたファッションをしていたときに"恥ずかしい"と感じました。今考えればこんなこと考えていた私が恥ずかしく、最低です。もっと、男性女性と二極化するのではなく、「あなたにはそんな魅力もあったのか」とその人の素敵さに気づける人になりたいと思っております。
そして私は昔から自分らしさについても迷い続けています。「自分の特徴ってなんだろう」と考えていろんなものに手を出しました。結局続けられず「こんなものか」と自分を普通の人だと諦めていました。
哲学カフェに参加した方に、自分らしさを見つけられないことについて言及してみたら、
「自分があの産地のあのブランドのあのフルーツが好きなのと同じで、自分には細かい自分らしさがあるんだよ。」
「もはや、自分らしさなんてなくていいんだ。これから少しずつ身についていくものだ。」
と言ってくださいました。自分らしさは大きくなくていいんだと。なんなら待ってやろうじゃないかと。自分が新しい自分になってもっと深みが出てくるまで。しっかり発酵したワインのように、いやボッコボコになったダンボール?いや何度もリサイクルされるプラスチック製品のように何度も練り込まれてできていくんだろうなと。
大学に入り、「この人とは会うだろうな」なんて予測していなかった人と出会います。そんな予測できていないのだから、今後も予測のできない出会いがあるでしょう。そんな最高な楽しみがこれからやってくるなんて。