「未解決」の真実を求めて② 奪われたもの 熊谷ひき逃げ事件
※ここで書く内容は全て事実を踏まえたものです。ご遺族の許可を得て掲載しています。《追記》2019年9月にこの件はご遺族の活動の末に「時効延長」になりました。それまでの経緯は後々の記事に書かれています。
第1回 第3回 第4回 第5回
前回の記事の掲載からまた1週間あまりが過ぎ、時効までのリミットがまた近づいた。
事件は今も現在進行形で動いている。
先日11日も、熊谷市内で情報提供を求めるチラシ配りが行われた。成人の年を迎えた孝徳くんの同級生達も参加して情報提供が呼びかけられた。「タイムリミット」が刻々と迫る中、解決に向けた最後の戦いが今も続いている。
第2回目は事件の根本と呼ぶべきもの、事件により「奪われたもの」について記していきたい。
奪われたもの
この事件についての記事やニュースで、必ず出てくる言葉がある。この言葉なしにこの事件が語られることはなく、記事も成立することはない。それは、事件で命を奪われた「小関孝徳」くんの名前だ。事件が奪った、2度と戻ることのない、かけがえのないもの。
生きていれば今年、20歳の成人を迎えるはずだった孝徳くん。どんな大人に成長しただろうか。もう二度と会うことが叶わない孝徳くんはどんな少年だったのか。その命が失われてたことの意味を感じてもらいたい。
人のために「孝」行し 多くの「徳」を重ねる子に
今から20年前の1999年の4月。桜が満開の季節に、孝徳くんは生まれた。
あまり体が強いほうではなかった代里子さんにとって、不安の中でのお産だったという。泣いて生まれてくるかと思っていたら元気いっぱいで、満面の笑顔だった。生まれた時から「本当に手のかからない」子だった。
両親にとっての待望の息子。
親だけでなく、他人のために「孝」行をして、多くの「徳」を積み重ねられる人になってほしいー。そんな願いを込めて「孝徳」と名付けた。
孝徳くん 生後2か月頃
「勉強ができることよりも、挨拶が出来る事や、いけないことをしたらきちんと謝ることが出来る事、そういうことが大切だと思っていました。『他人を思いやることができる』そんな子に育って欲しかったです」。
そして両親の願い通り、孝徳くんは家族にはもちろん、他人を思いやることが出来る、心優しい少年に育っていく。
「思いやりのある」「心優しい」少年
「優しかった」「お母さん思い」「思いやりのある」。
孝徳くんがどんな子だったか周りに話を聞いていくと、そんな言葉をよく耳にした。それを示すような孝徳くんの心優しいエピソードは幾つもあるが(そして私が知らない話ももっとあるに違いないが)、エピソードの数々からはやはり、「思いやりのある」「心優しい」少年像が浮かび上がってくる。その中の一つのエピソードを紹介する。
孝徳くんが小学4年生の時のことだ。
所属する少年団のサッカー合宿から帰ってきた孝徳くんから、代里子さんはお土産を受け取った。可愛いりんごのキーホルダーと、お菓子だった。
なぜこのキーホルダーを選んだのか聞くと、
「りんごの、キーホルダーは、笑顔が、お母さんに似てるから、」
モゴモゴと恥ずかしそうに話す孝徳くんの姿を、代里子さんは今も忘れられない。
孝徳くんが買ってきたお守り。今も代里子さんは大切に持っている。
キーホルダーは友達にも買ってきていた。持っていった小遣いは2000円。自分の買いたいものは一番最後にして、代里子さんと友達に渡すキーホルダーを優先していた。その理由を聞くと、孝徳くんは言った。
「自分のことよりも、友達が大切なんだ」
2人きりの家族 ささやかな幸せの日々
孝徳くんは、4歳の頃に父親を亡くしている。それ以来、代里子さんと孝徳くんは母と子、2人きりの家族となった。
家計を支えるため、代里子さんも正社員として働き、忙しくしていた。孝徳くんが寂しい思いをしていることは、母親の代里子さんにはすぐに分かったという。
それはそうだろう。甘えたい盛りの年齢で、我慢していたはずだ。10歳ともなれば、自分の家庭に父親がいないことも、それが他と少し違うことも、分かっていたはずだ。しかし孝徳くんが直接的に「寂しい」と言ったり、だだをこねて代里子さんを困らせるようなことは殆どなかった。土曜日に母親が仕事でも文句を言うこともなかったし、「好きなものを買っていいよ」と言っても、高いものはねだらず「ガムでいいよ」と言う。そんな子だった。大変そうな母親の姿を見て、孝徳くんなりに「自分がお母さんを助けてあげなければ」と思っていたのではないか。
代里子さんは、小さい手で重い荷物を運んでくれた孝徳くんの姿を覚えている。「お父さんは力持ちだったんだよ」いうと、小さな体で一生懸命に重い荷物を運んでいた。ー代里子さんが仕事で色々あって目に涙をためていた時。「泣かないでね」と言ってそっとそばにいてくれたこともあったー
楽な生活ではなかったかもしれない。
しかし孝徳くんと代里子さん、母と息子2人のささやかな幸せがそこにはあったし、それは今もまだ続いているはずだった。それが奪われていい理由も、どこにもなかった。
孝徳くんが成長する中で、2人は喧嘩する事もあったかもしれない。
でも、それはもう分からない。
全ての可能性は、断ち切られてしまったのだから。あの日、あの事件によって。
あの日 ー2009年9月30日
あの日のことを思い出すと、代里子さんは未だに胸が苦しくなる。きっと、その苦しみが消えることはもうないのだろう。私も、辛い記憶をつぶさに聞くことはためらわれた。
ーあの日、2009年の9月30日。
あの日は、学校へ行く孝徳くんを見送り、代里子さんは仕事へ出かけた。いつもと変わらない朝だった。
その日、仕事から帰ると、知らない番号から着信が入った。かけ直すと「すぐに病院に行って下さい」と告げられた。その電話が誰からだったのか、定かな記憶は失われている。
「孝徳くんは交通事故で亡くなりました」
病院に着くと告げられた。遺体はすでに警察に運ばれていて、熊谷警察へ行くよう言われた。
「身元の確認のため」ということだった。
「轢いた車両は見つかっていません」
事故や火災が発生し、人が亡くなると「身元の確認」が行われる。死亡したのは誰か、特定するためだ。その確認は通常、家族や親族によって行われ「間違いない」ということになれば(事案にもよるが)警察が「報道発表」を行う。身元確認は「死亡確認」の場ともなる。
その「身元の確認」は、熊谷警察署で行われた。
通常は顔を見て行われる本人確認はしかし、別の方法が採られた。
見せられたのは、孝徳くんがつけていた腕時計。事故のによる後頭部の損傷が激しい、というのが理由だった。母親がショックを受けるであろう事に対する、配慮だった。
確認に使われた腕時計は、10歳の誕生日プレゼントとして代里子さんが孝徳くんに贈ったものだった。小学4年生になって、時間の管理を自分で出来るように、と。学校が終わると孝徳くんはその腕時計をつけて塾へ通っていた。孝徳くん自身が時間をかけて選んだ、お気に入りの時計だった。
警察署で見せられた腕時計は、孝徳くんのものに間違いなかった。死亡確認。「心優しかった」10歳の少年の命が、書類上からも失われた瞬間だった。
警察からは、さらに衝撃的な事実が告げられる。
「お母さん、息子さんはひき逃げ事故にあいました。轢いた車両は見つかっていません」
あまりの驚きに、言葉を失った…
息子の命が失われたことに加え、「犯人がいない」という事実に。
(その時のお気持ちは?)
私が聞くと、代里子さんは苦痛を訴えた。
私はそれ以上、詳しく聞くことは出来なかった。
―身元の確認が行われていたこの時間帯、事故現場では警察による現場検証が行われている。霧雨の中、現場検証を行う警察と、道路に投げ出された自転車の映像はその後、幾度も報道されることになる。
10年後の今も、未だに。「未解決事件」として。
検挙率が高い「死亡ひき逃げ事件」 その内実は?
国の犯罪白書によると、死亡ひき逃げ事件の検挙率は毎年9割以上と非常に高い。100%という年もある。
しかしその内訳は、容疑者自らが自首・出頭してきたケースが多くを占めるのが実情だ。死亡ひき逃げ事件ともなれば、激しい衝突により車は何かしらの損傷が出る。壊れた車を見た市民からの通報が解決に繋がるケースも多い。しかし、自首も出頭もなく、解決につながる有力な通報もなかった場合、警察の捜査能力が問われることになる。
今回の事件は、今に至るまで容疑者は自首してきていない。そして解決に繋がる有力な目撃情報も、ないとされている。
警察の捜査能力が問われるケースとなった。
イチから容疑者を割り出すことは、簡単なことではないだろう。無責任に批判する事は出来ない。しかし警察の初動捜査がどう行われ、その後の継続捜査は、適正に行われてきたのか。それを検証する事は必要だろう。今後追求していくべきテーマの1つだと考えている。
〈熊谷市ひき逃げ事件〉
2009年9月30日、埼玉県熊谷市の市道で、当時小学四年生だった小関孝徳くんがひき逃げされて亡くなった事件。警察は犯人の行方を捜査。2019年9月、遺族の活動の末、時効が10年延長された。
(第2回 了)。
第3回は▽「未解決の真実を求めて③「時効」は誰のため?」です。
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(連絡先)
小関代里子(孝徳くんの母)
メール:k.takanori0930@gmail.com
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