落語「三方一両損」より/独自の観念・意識、過去の来歴を切る
〔このnote記事では古典落語「三方一両損」の内容に触れます。記事作成にあたっての時代考証や歴史考証等はありません。これらの点ご留意願います〕
1 はじめに
シェイクスピアが元ネタを大胆に改変しつつ詩的言語で高度に彫琢したことにより、「ハムレット」など人類の至宝たる諸作品が誕生しました。
古典落語「三方一両損」には、本朝に限ってもこれに流れ込む3つの源泉があるようです(羽生紀子「「三方一両損」の継承:『本朝桜陰比事』から『大岡政談』・古典落語へ」武庫川国文,84号,2018,23-33頁.木村祥子「江戸期裁判物における西鶴の脚色:「三方一両損」の流れを中心として」国文研究,36号,1990,24-33頁.藤本徳明「「情」と「理」の葛藤をめぐって:「三方一両損」型説話を手がかりに」金沢美術工芸大学学報,通号17,1973,1-11頁)。
①「聖人公事捌」『板倉政要』*成立は寛文年中・1661~1673年か.
②井原西鶴「落手有、拾ひ手有」『本朝桜陰比事』*元禄2年・1689年刊.
③「畳屋建具屋出入りの事ならびに一両損裁許の事」『大岡政談』*1751年頃から流布か.
④古典落語「三方一両損」*文化年中・1804~1818年頃に原型が形成か.
どのようにプロットの系譜が流れ、他方で諸要素の位置付けが変化し、描写の深化と簡素化、諸項の逆接続がなされたのか、これに即する当時の社会経済変動や人々の意識変化、潜ませた公儀権力への揶揄等の各解釈はたいへん興味深いところではありますが、上記諸論文などを参照いただけばよいと思います。この記事では、あくまで自分の問題・関心事を考えていく対象としてこの物語を深く掴まえていくことを目的としますので、下記の創作物を一つのベースにして考えを巡らせていきたいと思います。気軽にリラックスしてお読みいただければと思います。
2 創作「忠相回想」
3 あれば嬉しい vs (代替のきく媒介物に過ぎない vs あっては困るもの)
(1)熊五郎の諸観念の接続秩序 ―― 銭/印形及び書付け
熊五郎は金太郎が届けた三両を受け取ろうとしませんが、印形と書付けは受け取っています。これはなぜでしょうか。懐から出ていったという点では同じはずの【銭】と【印形及び書付け】を区別している、その理由は何か。
熊五郎の言い分は、印形と書付けは「大事だから」です。
印形と書付けは熊五郎にとっていわゆる不代替物となります。代えがききません(だから「大事だ」とあえて言う)。他方で銭の方は「媒介物」です。商品や役務(サービス)の移動を媒介するもので、価値そのものではなく価値を媒介するもの、という認識に熊五郎は立っているように思われます。媒介物であるから、「天下の回りもの」たり得る。するとこれはかなり高度な意識であるということができます。
大岡政談バージョンの熊五郎(大岡政談では「畳屋 三郎兵衛」)は、三両を落としたことに気付いた後、働いて稼ぐしかないとして仕事に励みます(しかも借りた銭であった、というさらなる代替性の強調さえ潜ませてある)。ここには、銭の代替性をしっかりと見据え、「媒介物に過ぎない銭」という観念・意識を定着させていることがよく表現されているように思えるところです。
普通は、三両届けてくれたら礼を言って受け取るでしょう(受け取らないから落語等で延々と語り継がれる物語となる)。代替可能であろうが媒介物に過ぎなかろうが、再度手にするのはやはり大変です。ですから、熊五郎の諸観念の接続秩序は、一般のそれとは異なります。
ただ注意したいのは、この熊五郎の観念・意識は、「銭はあると迷惑なもの」と捉える金太郎の意識とは違うということです。銭も必要なものには違いないが、落としたら落とした、別の方法で手に入れればよい、働けばよい、というカラッとした意識に彩られているのが熊五郎なのです。
(2)金太郎の諸観念の接続秩序 ―― あると困るのが銭
他方、金太郎はその名前に似合わず、「金があると困る」という意識です。
何しろ金太郎は、お金を貯めたり残したりはしたくない、出世して棟梁になるなどまっぴら御免。そのために金毘羅様に毎朝灯明をあげて祈っているというのですから相当なものです。
拾った三両はもらっておけと落とした当人に言われたら嬉しい、というのが通常の意識でしょう。ところが金太郎にはこれが困る。大家が言うように財布を拾うなどというドジを踏んだ金太郎は、拾ったがために三両に付きまとわれる破目になってしまいました。
「銭から離れたい」という観念・意識に生きているのが金太郎です。
4 過去の来歴を切る
(1)何が「損」「得」を意味するのか
上記の熊五郎と金太郎のそれぞれの諸観念の接続秩序を踏まえて大岡の判断を検討すると、何が見えてくるでしょうか。
通常、三方一両損の説明は次のようになされます(古典落語バージョン)。〈金太郎が熊五郎に三両を届けた際、そのまま受け取っていれば熊五郎は三両の得。いらないからもらっておけと言われてそのまま金太郎が受け取っていれば同人が三両の得。両名がいらないと言うので大岡が預かったままであれば同人が三両の得。しかし大岡が一両を出して、熊五郎と金太郎が二両ずつとるのであるから、三名とも一両の損となる。よって、三方一両損〉
なかなかうまい説明ですが、正直あまり釈然とはしない論理構造です。それは「得」と「損」の概念が大岡と熊五郎・金太郎とで異なるのに、それを同一平面に置いて無理に平準化して処理してしまうからです(奉行権力だからそういうものでしょう、というのは一つの説明ではありますが)。
先に見たように、熊五郎と金太郎は、それぞれ銭について独自の観念・意識を有しています。通常とは異なるかもしれませんが、とにかく「個」として立ち、大岡という奉行権力に対峙してそれを表現しています(それぞれの大家の存在は、両名の個を希釈する混ざりものです。だから彼らが願書を出したり、「有難うございます」などと言ってしまう)。
熊五郎は銭を媒介物に過ぎないとみる。代替可能であるから稼いで手に入れればよい。それを無理にとれと言われるのが嫌なので、金太郎に突き返していたわけです。それなのにお上が命じて無理に取らせるのであるから、これは熊五郎にとっては嫌なことを強いられることであり、つまり「損」です(二両をもらうのに二両分の損失感。セロリが嫌いなのに健康に良いからと無理に食べさせられる際、一本より二本食わされる方が嫌でしょう)。他方、金太郎は端的に銭が寄り付いてくること自体が嫌です。それを無理にとれと言われるのですから、「損」を強いられたということになります(同じく、二両をもらうのに二両分の損失感)。大岡は一両出すから一両損はそのとおりでしょう。
そうすると、「二方二両損・一方一両損」という語呂のわるい表題が出来上がります。「三方一両損」というのは、あくまで大岡が拠って立つ通常世間の銭に対する観念・意識を前提にした表現である、ということになります。
(2)過去の来歴を切る
しかし大岡裁きはいいところがあります。一度、三両を御金蔵に入れ公金にしてしまい、その後でそれとは別の金だと言って三両を公金から出して両名にとらせる、という儀式です(大岡政談バージョン)。
三両をいったん御金蔵に入れてしまえば、その瞬間に銭の性質が一変します。寺社等へ寄付する浄財のようなものです。洗われてしまいます(これの暗黒面が、資金洗浄いわゆるマネー・ロンダリングです)。するとどうなるか。銭にくっ付いていた情念や意味付けを含む一切の来歴が消えてしまうことになります。熊五郎が落としたこと、金太郎が拾ったこと、これを巡って喧嘩したこと、その焦点たる三両、という意味が銭から消え去ってしまうのです。過去の来歴を切るというモチーフです。
このモチーフは争いを解決する伝統的なものの一つでしょうが、近時の国際紛争をみれば、その難しさと重要さがより切実感をもって迫って来るような気がいたします。
こうした作業を経て大岡が両名にとらせる三両は、以前の三両ではない。だから両名は、単に意地を張っていたとした場合には素直に受け取りやすくなるのですが(そもそも、意地の張合いという理解に私自身は立っていませんが)、前記「忠相回想」では、熊五郎と金太郎がぽかんとしているように、この意味合いは伝わっていません。問題を解決するために、事態を単純化するのではなくあえて複雑化させることで隘路を突破するという不思議な儀礼に、ただただ戸惑っている様相を表そうとしたところです。
【雑多メモ】
〇本記事で強調したのは大要下記③点である。
①熊五郎と金太郎のそれぞれに「個」をみるということ(一般の諸観念の接続秩序と異なる内実を明らかにする。熊五郎と金太郎の二人を平板に同じように捉えない)。
②これを尊重する視点を持つということ(大岡の独りよがりの裁きを称揚しない)。
③「個」をみいだす根拠は、「銭と印形・書付を区別する(熊五郎)」「金毘羅様に毎朝灯明をあげる(金太郎)」という小さいながらも確かな徴候から、テクスト上(古典落語バージョン)の根拠を持って汲み出しうること。
〇大岡政談バージョンに見られる「過去の来歴を切る」というモチーフは、通念に反し単純化ではなく複雑化による問題解決(つまりは新しい意味と現実の創出)の範型を確認しておくためである。
〇御金蔵に入れる(大岡政談バージョン)に対し、大岡が預かる(古典落語バージョン)場合は「過去の来歴を切る」という側面が大幅に弱まる。預かるのは返すことを予期するものであり、返す際に過去の絡みつきが戻って来るから。ただ「預かる」は、「この処置は俺が預かる」という「仲裁」受任の意味合いを漂わせてもいる。
〇熊五郎と金太郎が意地を張り合って収まりがつかないので(つまり二人とも得られるなら銭が欲しい)、その人情の機微を弁えた大岡が自分も一両出すことで両名に「大事な銭をお奉行様に出させてしまった」と感じ入らせ、二人の意地の角がとれて丸くなり納得する、のであるからさすが大岡裁き、という連接関係を私は採らない。意地の張合い説は、熊五郎と金太郎のそれぞれが独自に持つ観念・意識を無視し、「江戸気質」風の単調概念で対象を見ることになる。
〇金銭が代替物であることにつき、山野目章夫編『新注釈民法(1)総則(1)』785頁(有斐閣,2018).
*見出し画像 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
*参考文献:麻生芳伸編『落語百選 春』109-122頁(ちくま文庫,1999)