落語「松山鏡」より/違うものと同じもの
〔このnote記事では古典落語「松山鏡」の内容やサゲに触れます。記事作成にあたっての時代考証や歴史考証等はありません。これらの点ご留意願います〕
1 はじめに
小説なり物語を読んでいると、ときに「これは一体どっちなんだろう?」と疑問に思うことがあります。こうとも読めるし、ああとも読めるし、こうでもないああでもないとも読める、という場合です。二者択一ではなく、三つの分岐が出てきて、かつ択一を拒否する場合であったりもする。書き手によって文や物語の解釈が一義的に指定されずに、読み手に開かれている。広く捉えればむしろそれが常態だともいえます。
こうなんだろうか、ああなんだろうか、と意識が、あるいは想像が揺れ動き、あっちに行ったりこっちに行ったりすること自体が、読み手に対して一つの効果を生み、単調な文体では生じない複合的な色彩と情感を醸しだしていく。こうした色や心理の混ぜ合わせ方なり組み合わせ方は理論上おそらく無限でありましょうから、こうした効果を生み出すような文体上の工夫もおそらく無限であり、その工夫の仕方は単に修辞的な技法だけに限られるものではなく、文や作品全般にわたり張り巡らしうる技芸なのだと思われます。
単純にみえるものも案外複雑であるというのがこの世界の実相のようですから、いかにも複合的で難しそうなものではなく、単純にみえる、少なくとも最初はそう思える対象についてまずは取り組んでみるのが常道だろうと安易に断定し、今回は古典落語「松山鏡」を素材にして作った下記拙文をもとに、上記の事柄などを、限られた視点からではありますが考えてみたいと思います。
2 古典落語「松山鏡」より
3 問いは単純、答えも単純?
(1)問い
庄助やその妻は鏡というものを知らず、庄助は映る姿を亡父と思い、妻は夫の不倫相手と思い込んでしまいます。この錯誤のメカニズム自体、“鏡を知らない無知”という視点だけに留まらない要検討事項が含まれているように思われますので後に考えることにして、この点をひとまず脇へ置いておけば、問うべき問いは単純に、「尼さんは鏡というものを知らずに、つまり映る姿が自分であると気付かずに最後の台詞を言ったのか?」というものになるかと思います。
(2)鏡知らず
庄助夫妻と同様に尼さんも、鏡に映る自分の姿を別の人物だと思い違えた、という点に滑稽味を見いだすことが自然な成り行きのような気もします。“三人とも鏡知らず”ではいくぶん話が単調にも思えますが、実は思い違いの様相には三者三様の別があり、それはそれで味わい深いです。さすが八咫御鏡の形代、見る者の内面を期せずして投影するように、孝行者の庄助には父が現じ、その妻には目論見どおり女が現れ、仲裁の任を自覚した尼さんには反省する人物が見える、と言ってみたくなります(なお念のために述べると、実際に御鏡の霊力で各鏡像が映っているのではもちろんありません。それでは御鏡の威力を感嘆するお話になるだけで笑い話にはなりません。落語ですから、やはり鏡に自分の姿が映っているのに気が付かない、という簡明な構造のはずです)。
(3)疑問
“三人とも鏡知らず”という理解でも当然よいのですが、しかしどうもそのような読み方だと心が落ち着かない気がしてきました。それは、この物語はその後どうなるのだろう、と考えるときに湧き出てくる疑問のようです。つまり後日談はどうするのかと。3日後なり1ヵ月後というようなタイムスパンの後日とは言わずに、尼さんの最後の台詞の直後、あるいは1時間後、それぞれの事情と心を抱えた三人はいったい何を話し、何をしていることになるのでしょうか。
比喩的に、また少し堅苦しく形式化して言ってみれば、この噺の文の先、未知のシンタグマの諸項にはどのような接続秩序が待っているのか、という問題です。
(4)その先の二系列
まずは“三人とも鏡知らず”の場合を考えてみましょう。この場合、尼さんも鏡というものを知らないのであり、物事の因ってきたるところを掴んでいないのですから、可哀そうな夫婦にポイントを突いたアドバイスができるとも思えません。「女は反省しているから心配しなさんな。じゃ」とでも言って去っていくのでしょうか。それでは夫婦はまた同じ騒動を引き起こすことになり、単純な諸項の繰り返しは物語の充実度としてどうかなと思うところです。もちろん、別様な展開の仕方はいくらでも描けますが、あまりよいものを私は思いつけませんでした。
そうすると、やはり別系列の諸項を考えてみたくなります。つまり、「尼さんはもとより鏡というものを知っていた。鏡を見てすぐに庄助の妻の錯誤を察知した。鏡に映る自分の丸い頭を見て、夫婦にかけるよい言葉を思いつき、微笑を浮かべてこれを二人に告げた」という理解に立ったうえでの、その先の諸項です。“機智に富む尼さん”バージョンと名付けておきましょう。
“機智に富む尼さん”は、夫婦喧嘩の主因となってしまった鏡の処置を考えるかと思います。どのようにこの鏡を手に入れたのかを庄助に聞き、他言無用との命を受けて最初は打ち明けない彼を情理を含めて説得し、殿から拝領した預り品だと知るに至るでしょう。そこで尼さんは庄助に何と言うか。「庄助さん。厳しいことを言うようだが、お前のおとっさんは冥界におり、この世のものではない。私が仏語をかけると一層柔らかで安らかな顔になって奥にすっと消えていったから、もう二度とお前に会いに来ることはない。本来会うことのかなわない亡き父にまみえたことを有難いことだと深く心に留め、殿に鏡をお返ししなさい。私も同行しますから」。そして、返却し終えた帰り、尼さんは庄助の妻に対して、「私が責任をもって女が実家に帰るのを見届けた。以後心配しなくてよい」と言うのではないでしょうか。
4 同じものはない
(1)現実世界の大前提
私たちが生きるこの現実世界の大前提は、「一つとして同じものはない」ということであろうと思います。《同じようなもの》はいくらでもありますし、それらを同じものだとして生活をしても何ら差し障りがないので、私たちはそれらを《同じものだと見做す》ことを超えて、《同じもの》だと思っていますが、しかしそれは幻想でしょう。
勝手気ままに葉っぱを二つ採ってきてみれば、その二つの葉は決して同じではない。どうしても同じものではありえません(養老孟司先生が強調するところです)。ところが、私たちはこれを「葉」であるとして同じものとみなします。葉脈のはしり方が違う、しかしこれを捨象します。葉先の曲がり具合が異なりますが、それも無視します。「それは自然物だからで人工物には同じものがある」と勘違いするのは、似ている程度の問題を質の問題に横滑りさせてしまうからに過ぎません。同じ工場で作られた同形のネジも、付着している微粒子の差異のみならず、電子顕微鏡で原子配列を見てみれば無数の凸凹が見つかるでしょう。では原子は? 電子の位置が確率的にしか特定できないくらい一つ一つ違います。さらに大きくみれば、ある一の時空間に同時に二つの何かがその場所を占めることはできないのですから、やはりこの世には同じものはないのではないでしょうか。
同じだとみなして何ら問題ないときには、私たちは「同じもの」だと言っているだけであり、ほとんどの場合それで人生は間に合うように思います(むしろ同じものだとしないと非常な困難に見舞われます)。しかし、時には「この世に一つとして同じものはない」ということを思い出してみることも必要かもしれません。
さて伝統的に、違うものを同じと捉える、カテゴリー化して観念を形作るのは知性作用であるとされます。しかし、その知性作用には使い方要注意の但書がついているように思えるところです。違いがあることを分かったうえで同じとみなすことと、それを分からずに同じと思い込んでしまうこととの間には驚くべき距離があるはずで、単純に知性を称揚して、抽象思考や論理的な概念操作を頭のよさだと勘違いしていくと、それがその人の世界や現実認識にも反映されて、平板で単調な世界(抽象化とはある要素を捨てることですから)を生きることになりはしないでしょうか。
(2)庄助夫妻の現実把握
百姓として千変万化の自然を相手にし、無限の諸相が流動するこの世を踏みしめながら生きる庄助夫婦には、「一つとして同じものはない」という正しく、そして素朴な現実把握の仕方が全身に染みわたっていたのではないでしょうか。そうであるからこそ、私たちが賢しらに捉えるようには「鏡なる現象」を捉えず、自分が二人いるはずはないのですから、的確に「映っているものは誰だ?」という具合に思いが走る(鏡なる現象においても、こちらが右手を挙げても相手は相手の左手を挙げるのですから、同じものではないのであり、やはり庄助らは的確だと言ってよいでしょう)。
他方、程度は別として知識階級に属するべき仏道修行をする尼さんは、知性作用を養ってきたはずです。鏡の知識そのものを有していたと思いますが、そうでないとしても、有する知性は速やかに、鏡に映る姿は自分であり《同じである》と理解するでしょう。この観点からも“機智に富む尼さん”バージョンが、噺には整合的だと思えます。
「一つとして同じものはない」。このテーゼはさらに生死というこの噺の深部へ、庄助の父はもはやいない、二度とまみえることはないのだという冷厳なる現実をするどく掴み離さない凄みへと、反響を続けていくのでありましょう。
【雑多メモ】
・「庄助」は「正助」と記し、妻の名を「お光」と表示するバージョンもあるようです。
・反省した女は頭を丸めて坊主頭にしたので、実家に帰るよりは仏門に入る(と言う)方が自然かもしれません。
・「非常に操作的な言い方をすれば、抽象化とは具体事例の持つ特徴を一つ以上取り去ったもの(あるいは変数化したもの)であるといえる」(鈴木宏昭『類似と思考 改訂版』208頁(ちくま学芸文庫,2020))。
・「抽象とは、対象自体のもつさまざまな特徴の中の一定の特徴だけに注目し、それを取り出すことである。言い換えると、抽象とは、対象のもつ多くの特徴を意識的あるいは無意識的に振り捨てることによって、対象を「理解する」プロセスなのである」(松浦好治『法と比喩』17頁,弘文堂,1992)。
・本note記事では、噺の先すなわちシンタグマを考えることにより、ひるがえって噺の中のパラディグマ(諸項の二系列の始点となる)の一を選択する、という論理をとっています。
*見出し画像 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」
*参考文献:麻生芳伸編『落語百選 春』283-291頁(ちくま文庫,1999)