反効率的学習のための法律学入門 「斜線の形而上学」 法的概念について② #5
1 はじめに
前回に引き続き,「法的概念」についてみていきます。
*前回の記事
法は,「法的概念」という「日常の言葉」とは異なる別種の言語で現実の事象を捉え直し,これを権利・義務の関係に編成し直すことで,現実を操作し,新しい現実を形成する技術です。
では,法の世界の言語である「法的概念」とは一体どういうものなのでしょうか。その理解が不十分であれば,法律の学習は結局行き詰ることになりかねません。そこで,迂遠なように思えますが,「法的概念」の有り様をすこし観察してみたいと思います。
「法的概念」ですから,ことはどうしても概念と言葉の関係性を探ることになっていきます。
2 斜線の形而上学
(1)「日常の言葉=日常の概念」による分節
下記の例1のような言葉・概念は,どこに分節線を引けばよいでしょうか(なお,言葉・概念が設定されている自体で第一次の分節(事象の切り取り)は終わっているといえますので,第二次の分節をしてみようという課題だということになります)。
斜線を引いて分けてみます(下記における言葉・概念の記載順序に意味はなく,順不同です)。
例1 「バラ 桜 ライオン」
素直に考えれば,「植物/動物」という分節系を見いだし,「バラ 桜/ライオン」という形で斜線を引くことになるでしょう。
他方,記号表現(シニフィアン)に着目するという高度なことをお考えになる方は,「バラ ライオン/桜」という形に斜線を引いて,「片仮名/漢字」という分節系を重視するかもしれません。
どちらが間違っているということはもちろんありません。視点の違いにより,分節系は異なりうるからです。
例2 「スマホ IT 富士山 幽霊」
例2はどうでしょうか。
一つの視点としては,触れるものかどうか,という違いがあるように思います。「触れるもの/触れないもの」という分節系を設定すれば,「スマホ 富士山/IT 幽霊」ということになります。富士山は,広い裾野から頂上に向かってどこからかは富士山といっていいと思いますので,少なくとも山の中腹あたりで地面に触れば,富士山を触ったことになるかと思います。スマホは毎日のように触っているかと思いますが,IT自体は情報テクノロジーを示す観念であり,触ることはできないかと思います。幽霊に触れる人は,私の知り合いにはいないようです。
別の視点もありえます。人間が生み出すものかどうかという視点です。「人為」かどうかです。「人為的なもの/非人為的なもの」という分節系を設定するのならば,「スマホ IT 幽霊/富士山」という形になるかと思います。富士山はやはり地球の地殻変動等の大自然が作り出したもので,人がどうこうして作ったものではありません。他方,ITも幽霊も,人間の観念の所産です。この地球上に人が登場する以前に,富士山はあったかもしれませんが,ITも幽霊も存在はしないでしょう。人間がその観念として生み出したものだからです。
例2も例1と同様,視点の違いによって分節系は多様になりえます。
それでは,法の世界においては,どのように斜線を引くのでしょうか。法の世界の分節系はどのようになっているのでしょうか。
(2)「法的概念」による分節
法の世界における分節系の大きな斜線,少なくともその一つは,「人/物」ということになろうかと思います(能見善久『法の世界における人と物の区別』(信山社,2022)。岩井克人『経済学の宇宙』355頁(日経ビジネス人文庫,2021)参照。なお同書では「ヒト」「モノ」という表記)。
なぜか。
現行法における法の世界の基本は、二当事者間の権利・義務関係です。この権利・義務の主体となりえるのは「人」だけであり(民法3条,同法34条),「物」には権利・義務の主体となる資格がないからです。それゆえ,「人/物」という分節系は,“権利・義務の主体”という法的概念体系の起点のような位置にあるといえるのです(「近代社会における私法の法律関係(権利・義務関係)は,権利・義務の主体としての「人」,権利の客体としての「物」,そして権利・義務を形成する取引などの「行為」によって構成される。」谷口知平ほか 編『新版注釈民法(1)総則(1) 改訂版【復刊版】』247頁(有斐閣,2010))。
かつて恐ろしいことに,法的に「物」として扱われた人がいました。奴隷です。現代にはいないことを祈ります(いわゆるブラック企業やブラックバイトで非人道的に酷使される人は,まるで物のように扱われていやしないでしょうか)。
人間より演算能力が優れたAI搭載ヒト型ロボットであっても,「物」である以上は,権利・義務の主体となることはできず,よって,自動車の購入契約をすることはできませんし,家を買ってその登記名義人になることもできません。
3 「人」とは人間のことか
さて,権利・義務の主体となることができるのは「人」だけなのですが,この「人」とは一体何かが問題です。
「人」とは権利・義務の主体となることができるものです。私やこれをお読みの方は,当然,個人(自然人)として「人」であり,権利・義務の主体となることができるのですが(民法3条),法の世界には別の「人」が動き回っております。「法人」です。法人も,権利・義務の主体となることができるのです(民法34条)。〇〇株式会社という法人名で契約を締結し,不動産を所有して登記することなどができます。法の技術として,権利・義務の主体となることができるものを概念として生み出したというわけです。
そうすると,法律を学ぶ上で,同じく権利・義務の主体となることができるので,法人と個人とを同じように捉え,深い省察なく平板に取り扱っていくという姿勢になりがちです。概念化による錯視です。それが危険です。
このシリーズで当初より述べてきたとおり,法の基底理念は「個人の自由」です。「人の自由」でも「法人の自由」でもありません。
法人も個人と同じように権利・義務の主体となることができる「人」であるからといって,同じ感度で扱うことは極めて危険です。「法人」は法技術的概念です。技術は素晴らしい効用を生むと同時に,悪用され弊害を生むことがある。法人を「活用」し,不定形主体の一翼を法人に担わせる。これにより,個人の自由が覆われていく事態に気づかない。あるいは法人内部にいる個人を忘却してしまう。
そのような概念化の錯視を避けるためには,「法人」という法的概念への深い省察が必要となるように思われます。
*以下の記事につづく
【参考文献】
・山野目章夫 編『新注釈民法(1) 総則(1)』(有斐閣,2018)
・谷口知平・石田喜久夫 編『新版注釈民法(1)総則(1) 改訂版【復刊版】』(有斐閣,2010)
・大村敦志『民法読解 総則編』(有斐閣,2009)
・岩井克人『経済学の宇宙』(日経ビジネス人文庫,2021)
・能見善久『法の世界における人と物の区別』(信山社,2022)
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