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落語「時そば」より/諸観念の接続秩序

〔このnote記事では古典落語「時そば」の内容やサゲに触れます。この点ご留意願います〕


1 はじめに

楽しい落語、話術の至高の芸をあえて小難しい対象としなくてもよいのではないかとも思うのですが、同時に、多くの人とリラックスして共有し語り合える範型・範例としてこれほど適切なものもないのではないか、という考えから、いままでも何度か古典落語を素材にして自分の関心事を論じてきました。

今回は古典落語から「時そば」を取り上げ、下記拙文をもとに、限られた視点からではありますが考えてみたいと思います。


江戸の夜道は酔っ払いや博打帰りや浪人のさすらう場だけではなく、「二八にはちそば」の商い場でもある。そば一杯が十六文じゅうろくもんなので、「二八そば」と呼んだという。

さて、今日も天秤棒てんびんぼうを担いだそば屋が客寄せの声を出して歩いている。「あたり屋」という看板に目をとめた客が一人、そばを一杯注文した。客は、縁起の良さそうな屋号を褒め、素早いそばの提供に感心し、器の見事さを嬉しがり、もちろん美味いそばだと持ち上げる。

食い終わった客が、十六文に決まっているのに「お代はいくらだい?」と聞くと、店主は「へい、十六文いただきます」と答える。「小銭で悪いが、手を出しておくんな」と言って、店主の手のひらに一枚ずつ置いていく。

客「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、何時なんどきだい?」

店主「九刻ここのつで」

とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六」
勘定を済ませた客はすっとどこかへ去って行った。

この様子をずっと見ていた与太郎は、両の手で指折り数えながら「そうか分かったぞ」と一人嬉しそうに呟き、何やら気づいた様子である。今日は小銭がないから明日決行しようと心に決めて、長屋に帰って行った。

翌日の夜、じゃらじゃらと小銭を持ち、はやる気持ちを抑えて与太郎はそば屋を探す。「丸屋」なる二八そばがいたので、そばを一杯注文した。

なかなか出て来ないうえに汚い器で不味いそばを食わされて、与太郎は「もう、勘定にしてくれ」と言い出す。「十六文ちょうだいします」と答える店主に、与太郎は小銭で一文ずつ渡す。

「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、何時なんどきだい?」

店主「四刻よつで」

「五つ、六つ、七つ、八つ・・・・・・・・」

落語「時そば」より

*九刻:午前零時
*四刻:午後10時



2 表層に流れて本当の論理構造を見過ごす

落語世界の永遠の三枚目たる与太郎ですから、当然こうなります、という見事なオチ。

説明することの方が滑稽な気もしますが、今の刻に合わせて「何時なんどきだい?」と聞くことがポイントで、「八つ」の次に「何時なんどきだい?」と聞くことがポイントなのではない。すなわち、与太郎の場合は、「一つ、二つ、三つ、何時なんどきだい?」と聞くべきだった、ということになります。

落語での与太郎的人物は、いつも他者の言動を凝視し、その表面的様相をときに微細に記憶しながら、結果つかむものを間違える。本来つかむべきは駆動している本当の論理構造なのですが、表層の方がそれであると見誤る。そのために、せこく得をしようとして逆に損をする、という次第となります。

落語「目黒のさんま」の殿様も同様だといえます。目黒で食べた秋刀魚が美味かったのは焼いて食べたからで、目黒で獲れたからではない(目黒は鷹場で、そもそも秋刀魚は獲れない。後に家来が日本橋の魚河岸で仕入れた秋刀魚の方がよほど質が良かったであろうに)。

この点に誰もが気づくので、みな笑えるのだと思います。もちろん名作との評価に揺るぎなし、という感を深くします。



3 「時そば」にみる諸観念の接続秩序

(1)見えない通念を見る
すこし視点を変え、「時そば」を素材として、諸観念の接続秩序という問題をみていきましょう。


たとえば現代のそうぞうしい私たちの社会にも、目には見えにくいかたちで、しかしたしかに暗黙の通念の体系というものがある。もともと通念だの思想などというものは、これがそれでございますというかたちで、それ自体を手に取ってみることなどできないものであろう。けれども、通念の体系を見るひとつの方法は、その社会で容認されていることばづかいの組織状態を眺めることである。これは、あまりにも見のがされているばあいの多い、しかし重要な事実ではないか。あえてやや誇張ぎみの言いかたをしてみるなら、通念とは、実際に観察可能な現象としては、ことばの意味の《接続》制度として存在するものなのだ。

佐藤信夫『レトリック認識』185頁(講談社学術文庫,1992)


接続制度、つまりは「Aの次に何が来るか」「Aの次にBが来たら、次はCが来るのかどうか」ということです。諸項の連鎖関係、接続順序というものが、人々の通念を期せずして表面化してしまう、という指摘とも言えます。

諸項は敷衍すれば、言葉のシニフィアン、意味のみならず、言葉遣いの様相、情感や心理の動き、行為・行動などの非常に広い範囲に及びます。こうした諸項を「諸観念」と呼び、その接続秩序は「諸観念の接続秩序」と呼ぶことにします。


(2)例解 贈与における諸観念の接続秩序
みなさまは海外旅行に行ったら、職場の同僚などのためにお土産を買いますか?【海外旅行】⇒【お土産購入】という接続を受容していますか。このような接続秩序など全くない文化圏はいくらでもあるようですが、日本では、あるいは世代によるのでしょうか。

お土産を渡されたらどうしますか。受け取りを拒否しますか、それとも受け取って「ありがとう」と言いますか。【お土産を渡される】⇒【(受け取り拒否ではなく)ありがとうと言う】というのが、おそらくは通念でしょうか。

受取ったあとは、お返しをいつかしなければという思いが生じ、実際にお返しをしますか。【お土産を受取る】⇒【(お返しをしなければという気持ちが生じ)時宜に合わせお返しをする】という接続をとり、【お土産を受取る】⇒【ありがとうと言って終わる(お返しは一切しない)】という接続は排除していますか。

まずはこうした諸項があるということ、つまりは事象を一連不分割のものと捉えるのではなく、自分で自分なりの分節を与えることが重要だと考えます。なぜか。自分側の分節がなければ、常に相手側の一連不分割の諸観念秩序を受け入れるよう迫られてしまうから、つまりは自由がなくなるからです。対象に自分なりの分節を与えられることが、接続秩序における諸項の入れ替えを可能にする前提をなします。お土産程度の贈与ならまだよいでしょうが、返しがたい過大な贈与ほど恐ろしいものはないことは、誰もが知るところのはずです。


(3)与太郎と諸観念の接続秩序
「時そば」のベースにある接続秩序は自然数の接続順序ですが、公差1の等差数列という身体感覚にまで浸透しているような秩序体制なので、これが人為的な接続秩序だということを見落としやすいようにも思います。また、同じ数字ではありますが、《ぜに》と《時間》という二系列の接続秩序による、違う内実・意味の数字なのにそれが混線する、という点にこの噺の肝があるということも、押さえておきます。

いずれにしろ、「・・・5、6、7、8」ときて「9」ときたら次は「10、11・・・」と続くというのが通念であり、「9」の内実・意味が違っても(銭と時間)、シニフィアンたる響く音が同じであれば、リズムに乗って接続は断絶せず生きていくと見越してそれを利用した最初の客はたいへん悪賢わるがしこい。

他方で与太郎は、相手を騙すため自然数の接続秩序の混線を店主に起こさせようと図るが、「四刻よつで」と響く音に自分が混線してリズムよく「五つ」に戻ってしまう。結果損をするので、《銭》と《時間》という二系列の接続秩序の別を自分で間違えてしまう(「時間を聞いただけだ」と言って流せない)ところにその滑稽さが際立つ要因があるようです。



4 おわりに

私たちは混線の様相が分かるから、与太郎を笑うことができます。

しかし、諸観念の接続秩序を乱して混線させようと意図した周到な悪意の攻撃に、人はどこまで耐えて防御することができるのでしょうか。防御する装備は何でしょうか。分節防御の体制は、諸個人において、あるいは社会において、精度高く強固に整備構築されているでしょうか。

少なくともその一歩は、意識下に潜みがちな自身の諸観念の接続秩序を分節的に明晰につかみ、自分だけのリズムを感じて、臨場感をもった言葉で日々更新しつつ、返す刀で、対象となる相手の諸観念の接続秩序を冷徹に見抜こうとする凛とした姿勢にあるのではないか、と思う次第です。




【雑多メモ】
・諸観念の接続秩序:夏目漱石は「適当なる新しき暗示に接せざる時、吾人の意識は約束的の内容を約束的の順序に反覆す」とし、「犬も歩けば」というと次には必ず「棒にあたる」を予期する、という例を挙げる(夏目漱石「文学論」『漱石全集 第十一巻』502-503頁(漱石全集刊行会,1936). 国立国会図書館デジタルコレクション)。漱石は、刺激のない状態では諸項は旧態依然の接続秩序を反復するだけであるが、新暗示が旧意識を打破するために戦いこれに成功すると、「F」(焦点的観念又は印象)が「F´」に「推移」していくとし、これが開化であるとする。



*見出し画像 出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク
*参考文献:麻生芳伸編『落語百選 秋』122-131頁(ちくま文庫,1999)、佐々木英昭『漱石先生の暗示』(名古屋大学出版会,2009).


2023.9.18



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