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手塚治虫,ブラック・ジャック「地下水道」より/個の確立と他者

〔このnote記事では、手塚治虫「地下水道」(『ブラック・ジャック④』秋田文庫,1993.所収)の内容に触れますので、まだお読みでない方はご留意願います〕

手塚治虫『BLACK JACK 第4巻』(秋田文庫,1993)


1 はじめに


不定形主体間の不定性・不定量な互酬関係に埋没してしまえば、個人の自由はありません。集団間や集団内にうごめく曖昧で不透明な思惑や利害、義理・人情、感情対立の絡まり合いの濃霧と嵐に包まれて、個人はなすすべなく押し潰されていきます。これは例外的事象ではなく、人間社会の常態、ほうって置くとそうなってしまうものであり、かつ、これを見抜く眼を備えなければ個人抑圧のメカニズムに誰かが苦しんでいること、自分がほんとうは苦しんでいることにさえ気づかない。

そこで、自他のために集団に埋没しない個を確立することが要請されます。これ自体が難事中の難事です。個とは具体的に何を意味するか、その確立とは具体的にはどういった状態を指すか、固定的な達成点を意味するのか動的な態様を指すのか、検討ポイントは多数ありますが大きな前提として、個人の意識が透明であること、すなわち、直面し生きる対象・世界にできる限りありのままに触れることができる心であることが必要であろうと思われます。個々人が透明な意識を培っていくことは、広く言えば学習過程であり、それは生きる過程そのものと同義ともいえる作業となります。過去の文化的蓄積、知的な積み上げの成果を日々身につけながら、現実世界における実践の中で鍛え上げ、ときに振り返り徐々に徐々に磨き上げていくほかない。先人や他者に学び続け、結局は自分自身が独自に構築していくほかないものです。

そうして築き上げた自己で対象なり世界に向き合うとき、自分独自の分節認識・表現体系としての近位項体系が作動し、これにより、対象・世界の諸項の接続秩序を構成的に解釈し理解していくことができるようになる。その上で、現実の隘路を踏破して行き詰まりのない本当に充実した生を生きるには、自分の内部の諸項の接続秩序を感じながら、外部の諸項の接続秩序と切り結ぶ覚悟、つまりは自分自身の変容をも容認する強い個であることが求められるのです。

ところがややも勘違いすると、強い個なるものは唯我独尊的な「我尊われたっとし」の肥大した自意識とも一見似ているようでもあるために、他者とつながることも心を通い合わせることもできず、あるいはこれを拒否し、社会なり共同体の紐帯を切断する異邦人になってしまうとの危惧が生じます。ブラック・ジャック「地下水道」ではその一面を描いているとみることもできますので、後ほどそのあたりを見ていくことにします。

では、確立した強い個は、どうやって他者と心を通わせ、言葉や思いを通約し、ほんとうの意味でコミュニケートすればよいのでしょうか、これを可能とする前提なり条件はいったい何か? 今回は、このあたりの入り口をも考えてみることにしたいと思います。


*不定形主体間の不定性・不定量な互酬関係について簡略にイメージをつかむには、下記note記事をご参照ください。

*近位項体系については、下記note記事をご参照ください。



2 過激派リーダーB・Bの人物像(表層)


「ジャガーとハイエナ」なる世界ビックリ革命派行動隊グループ、そのリーダーがB・Bです。彼は有名な金持ちの「何不自由ない道楽息子」(同書103頁)である(放蕩息子のトポス寄りか)。

過激派組織によくみられるようにここでも各派での潰し合いが進行中であり、B・B達のグループは敵対する三角派を殲滅しようとしています。

アパートに結集する三角派幹部を一斉に排除するため、B・B達はアパート真下の地下水道に爆弾を持ち込みます。ここでの彼らの会話が興味深い。

アパートごと吹き飛ばすという計画に対し、グループの一員が、アパートには関係ない人もいると言い、他の一員が、友人も住んでいると言う。これに対しB・Bは、「そりゃしかたがない 人間の十人や二十人死ぬことの心配なんかしていたら われわれのせん滅作戦は実行できないのだ」「自分勝手な都合はやめろっ 爆破装置を組み立てるんだっ」(同書96頁)と言い放つ。

B・Bのグループは過激派組織として一応の集団を形成していますが、他のメンバーはその集団がもつ諸項の接続秩序(目的のためには人命といえども犠牲を厭わない)を共有しつつも、これに明示的に疑問を提示しています(結局は唯々諾々と従うわけですが)。同集団の諸項の接続秩序の内容形成はどうやらB・Bが担っており、彼だけが法的にも倫理的にも異常な諸観念の世界を生きていて、それをグループに及ぼしている、という構造です。彼は通常世間の諸観念に埋もれることを超然と拒否しています。

つまり、ある意味でB・Bは一見して強い個のようです(多少魅力的な悪役を造形するには、だいたいがこのように俗世間に抗して屹立しているような人物像である必要があります)。



3 過激派リーダーB・Bの人物像(深層)


(1)迷える分節線

このB・Bが、単なる肥大した自意識を生きているだけで、実は強い個ではない、確立した個を生きているのではない、というのはどうしたら分かるのでしょうか? 思想内容から覗けばそれが分かるでしょうか?

彼らは当然ながら、他者をあやめたり敵対グループを殲滅する、しかも無関係の人のみか友人までも犠牲にすることを辞さない、という極端な危険思想の持ち主です。こうした思想内容を持つから、そのリーダーであっても強い個を確立しているなどとは言えないのだ、というロジックは有効でしょうか?あるいは、そのような危険思想を持ちうるから、個を確立するなどと安易に称揚することこそが許されざる傲岸不遜な考え方なのだ、という転化したロジックはありうるでしょうか?

しかし、思想内容から分節線を見出そうとしても、相対主義の綿に包まれてしまえば、その切り分け目に入れるナイフの切れ味はどうしても鈍磨してしまうものです。「それは人それぞれ」「いろんな考え方があるからね」などと濁されて、グレー領域に追い込まれてその場を切り抜けられてしまうのが落ちではないでしょうか。知らぬ間に観念的議論へと主戦場が移されて、些末な論点を延々と生み出しては、市井しせいに生きる私たちは置いてきぼりをくらうだけです。

では、B・Bは物語の最後に自身がよって立つ諸観念の接続秩序を壊されたようであり、結局自身の超然たる思想を維持できなかったのであるから、やはり個は未確立であった、というロジックはどうでしょうか?

しかし前述しましたが、自己変容は個の未確立を意味しません。自分が変わる、それも何か神聖で善いものに出会い、心を震わし、一挙にあるいは徐々に自分を再生し、生成変化のダイナミズムを生きることは、むしろ個確立の実相的な姿ではないでしょうか。ですから、B・Bが自身の思想を維持できずに脆くも崩れ去っていくという外形そのものからは結論はでない、と考えます。


(2)自他のありか

物語にもどってみます。

「他人はいくら死んでも平気だが 自分は死ぬのがいやなのかね」(同書107頁)と問うブラック・ジャックに、B・Bは「あたりまえだ」(同頁)と答えます。

つまり自他が切り離されている。自分と他者は違う。そうであるがゆえに作り上げることができた俗世間から超絶した諸観念が、B・Bの内部の諸項の接続秩序の実体だったということです。他者不在こそ、肥大した自意識の定義です。

そして、装置の暴発によりB・Bは鉄骨に押しつぶされて死にかけ、巨大なネズミ群に顔を無残に食いちぎられる、恐怖と痛みと屈辱の極限に投げ込まれます。

痛い、心も体も痛すぎるのです。失った意識を目覚めさせたその時に、ブラック・ジャックから「この人たちに打ち明けておまえさんを助けだしてもらったんだよ」(同書113頁)と告げられるアパート住民の行動、そして目の前で見守る彼らの存在感は、B・Bの心身に強烈に染みわたったことでしょう。それは、絶望的痛みを感じるなかでしか感じとることができない、他者の存在実感であったはずです。なぜなら、その絶望的痛みを目の前の彼らに与えようとしていたのが、他ならぬ自分自身だからです。

「この人たちに打ち明けておまえさんを助けだしてもらったんだよ」。この直後の1コマに物語最大の焦点があたるのは、上記した他者の存在実感が、肥大した自意識の塊であるB・Bの全身を射貫き、綺麗にばらばらにしてくれるその一瞬間前だからだと思います。

こうしてみてきますと、肥大した自意識と確立した強い個とを分節する線は、他者は実は自分であるということの心身の深奥からの実感に基づく自己内部の諸項の接続秩序であるかどうか、これを十全に組み込んだ諸項の接続秩序で構築された個であるかどうかだ、と結論できると考えます。



4 最後まで手塚の優しさが


しかしB・Bはブラック・ジャックの医術と言葉にめぐり合い、アパート住民の行動と存在に心身を射抜かれ、人前で泣くことができた。そこに、彼の個確立の萌芽がやはり枯れずに生きていたことを知るのです。



【雑多メモ】
〇B・Bと比較すると、他のメンバーが集団の諸項の接続秩序を安易に受け入れていたこと、つまりは個のカケラもない事実が鮮明になる。ある一員は、アパートには友人もいるのだとしてアパート爆破計画に一応の拒否感を示していた(同書96頁)。ところが、B・Bを結局は見捨てて帰ってこない(同書106頁)。自分と近しい人は守りたいという倫理感すら見せかけである。また、B・Bを助けるために自首しろとブラック・ジャックに迫られても、それさえも「アノ・・・えー ぼくたちだけでは決められないんでほかの幹部と会議をして決めてきますから・・・」(同書105頁)などと言う。自首するのは自分であり、目の前のB・Bを助けるのは自分である、という根本を見ることすらできず、自分自身の人生重大事を「ほかの幹部と会議」してから決めるという愚かしさ。B・Bより救いがない彼らは、またどこかの集団の暗示攻撃に晒されて、その集団が発する諸項の接続秩序を省察することなく受け入れ、造作もなく絡めとられていくことだろう。
〇アパート住民は三角派幹部集会に居合わせるという偶然により爆殺されようとしていた。一方のB・Bは爆破装置の暴発という偶然により死線をさまようことになった。この「偶然」を媒介項にして自他が共通性を獲得し、そこにB・Bが他者存在を心で受け止める道が開かれるという物語経路に、手塚の神業的プロット形成力をみる。
〇他者不在の肥大した自意識は個の確立を意味せず、むしろその対義語に近い。他者とはもっとも受け入れにくい存在・感受性・思考・文化であり、かつ流動する無限の内包を有するつかみ難い実体である。これを心身で感じ取るということは、対象・現実をできる限りありのままに心で触れること、すなわち透明な意識を持つということである。強い個の確立は、透明な意識で他者に触れることを核心とする。
〇「真の悔悛は許しと愛が前提とならねばならない。全面的な許しがなければ、人は決して己れの罪を十分な深さにおいて認識することはできないのだ」(田島正樹『文学部という冒険 文脈の自由を求めて』57頁,NTT出版,2022).


2024.2.13






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