チベット記(2) セラ・ゴンパの問答修行 【世界旅行記032】
2012年9月4日(火) チベット ラサ
ノルブリンカのあとは、セラ・ゴンパを訪れた。ゴンパは「僧院」を意味するので、日本語ではセラ僧院やセラ寺などと表記される。チベット仏教ゲルク派の大僧院で、最盛期には5,500人もの僧侶がこの地で学んでいたという。
セラ・ゴンパでわたしたち夫婦が楽しみにしていたのは、なんといっても中庭で行われる問答修行である。これがどんなものかは、わたしが拙い表現で記すよりも、ダライ・ラマ自身による説明と実際の写真で理解してもらうのがいちばんよいだろう。
セラ・ゴンパでは、日曜を除き毎日16時頃になると、僧侶が中庭に集まり、この問答修行が行われる。中庭へ近づくと、大勢の話し声とパチン・パチンという手を打つ音が無数に聴こえてきた。なかへ足を踏み入れると、エンジ色の僧衣を身にまとった僧侶たちの姿が目に飛び込んでくる。優に100人は超えるだろうか。壮観だ。
これでもかというくらい大きな身振り手振りで相手にけしかける僧がいれば、アイディアが浮かばないのか頭を抱え込んでいる僧もいる。なにがおかしいのか、相手の返答に笑い転げている僧もいる。休憩中なのか、さぼっているのか、端の方で談笑している僧も見える。およそ「修行」という言葉から連想する苦しさは一切感じられない。全員がのびのびと、楽しそうにユーモアの訓練に取り組んでいる。
彼らがなにを話しているのかはわからない。日常で使われるチベット語とは異なるらしく、ガイドのゲルさんでも、その内容はわからないという。それなのに、飽きない。いくら見ていても、飽きない。
それにしても、仏教に論理学やディベート術が必要というのは、仏教に詳しくない者からすると、少し意外である。「このユニークな討論で発揮される僧侶の才能が、彼の知的成果を判定する基準」になるため、ダライ・ラマも12歳のときから弁証法論理の熟達者をコーチにつけ、ディベート術を学んだという。僧侶として、仏教哲学に通暁しているだけでは足りないのである。彼のユーモアあふれる話し方は、この修行の賜物かもしれない。
彼らの討論の一片でも理解できたら、どんなにかおもしろいことだろう。現代のビジネスパーソンが必要とするロジカル・シンキングにも通用するノウハウがあるかもしれない。
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