チベット記(5) 高度・不順応 【世界旅行記035】
2012年9月7日(金) チベット シガツェ → ティンリ(車)
成都から参加した今回のツアーは、チベットからネパールへ抜ける7日間のツアーとなっている。ラサを観光したあと、ギャンツェ、シガツェ、ティンリーを通って、最終的にネパールとの国境・ダムまで車で連れて行ってもらう。本来はエベレストベースキャンプ(EBC)まで行き、間近にエベレストを眺める予定だったが、最近、EBCで外国人がチベットの旗を立てたとかなんとかで、観光客は行くことができなくなってしまった。
チベットとネパールのあいだには、巨大なヒマラヤ山脈が横たわっている。EBCに寄らないとはいえ、ネパールへ抜けるには、標高4,000〜5,000メートルの険しい山道を越えていかなければならない。
今回の旅でわたしたちが一番心配していたのは、高山病である。高山病は、誰がどんなときに発症するかわからない。常に深呼吸を心がけるとか、水分をたくさん摂るとか、昼寝しないようにするとか、気をつけるべきことは多々あるが、それらを守れば発症しないという性質のものではないらしい(十分な休息は必要だが寝てはいけない、というのは一種の拷問に近い)。
また、よく酸素吸入が効果的だというが、それはあくまで一時的な症状回復であって、順応が進むわけではないという。つまり、高山病に特効薬なし、ひたすら地道な順応行動あるのみ、ということらしい。
わたしたちは、成都で買っておいた「紅景天」という漢方薬を青蔵鉄道に乗る前日から飲み始めた。予防薬として効果があるらしいが、その効き目はいまとなってはよくわからない(紅景天を飲んだからこの程度で済んだとも言えるし、効き目がなかったから苦しんだとも言える)。
標高3,600メートルのラサでは、2人とも、ひどい高山病にはならずに済んだ。とはいえ、富士山と同じくらいの高さにいるので、階段を上るだけで息が上がるし、ちょっと激しく動けばクラクラする。ただ、それでも少し休めばもとに戻る、という状態だった。
わたしの体調がおかしくなったのは、標高3,900メートルのシガツェに着いたときだった。頭の両側を圧迫されるような鈍痛が数秒おきに襲ってきた。一度はじまった頭痛はひどくなる一方で、夕食もろくに食べられず、痛みを抱えたまま寝床に着いた。
翌日は、さらにハードなスケジュールが待っていた。ひたすら高地を走り抜け、今回のルートの最高地点・標高5,248メートルのギャツォ・ラを経由し、宿泊地であるティンリーヘと向かう。ティンリーの標高は4,390メートル。コンクリートの箱に仕切りを入れただけのような簡易宿に着いた頃には、わたしたち夫婦は2人ともひどい高山病で苦悶するほかなかった。妻は吐き気もひどく、一時はこのまま気を失うのではないかと心配するほどだった(ほかの同行者はそこまでひどくなさそうだったので、個人差が大きい)。
一度、高山病になってしまったら、とにかくじっと耐えるほかない。平地へ下りるときが来るのを、ひたすら待ち続けた。もちろん、状況が許すなら一刻も早く高度を下げた方がよい。一度下りはじめたら、それまでの辛さが嘘のように取れる。下れば下るほど、楽になる。
今回の旅で、2人とも高地に向いていないということがよくわかった。わたしたちは標高4,000メートル以上のところには、絶対に住めない(住むつもりもないが)。頭痛を我慢しながら見た満点の星空と、雲の隙間から姿を現したエベレストの姿は、もう二度と見ることはないだろう風景として、脳裏に深く刻まれた。平地へ下りたいま、高所での写真を見るだけで頭痛が蘇るほどに、深く刻まれた(これをトラウマというのだろう)。
結局、EBCに行けなかったために、ツアーは1日早く国境の町・ダムへ到着し、そこで1泊するか、もしくはネパール越えしてしまうか、という重大な判断を突如迫られ、ダムの物価は高いというガイドの一声に、わたしたちはネパール越えの道を選んだ。チベットのガイドはネパールへ渡れない。よって、これにてツアー終了。解散。1日分のツアー代が返金されてもよさそうなものだが、そんな交渉をする元気も残っていなかった。
いきなり放り出されたわたしたちは、お世話になったガイドのゲルさんにろくろくお礼も言えぬまま、歩いてボーダーを越え、ネパールのビザを取得し、いろいろの交渉の末、乗り合いバスに乗って4時間半、バックパッカーの聖地と言われるカトマンズへと、たどり着いた。
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