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通信方法の移り代わり

私の父は兵役検査の時、体が頑丈でなかったとの事で、日本の基地で通信兵をしていたとの事でした。その頃はモールス信号を使ったデジタルでの情報のやり取りをしていたそうです。あまり名誉あることではなかったみたいですが、そのお陰で生還できて私が生まれた事になります。

通信手段

1974年、大学4年生の夏休みにバックパックを背負ってヨーロッパ12か国を2ヶ月掛けて回ってきました。出発してからひと月が経ち、そろそろ家族が心配しているだろうと思ってウイーンから長距離電話を掛けました。ホテルの受付で申し込むと繋がるのに8時間かかると言われました。それまでも絵葉書は何回か送っていましたが、生の声を聞いて祖母に大変喜ばれたのを今でも覚えています。

ロシアがアジアからヨーロッパに跨る途方もなく広大な領土を持てたのは、12世紀に急拡大したチンギスハーンの領土を引き継いだ為と言われています。彼は広大な領土を守るために、情報の道であるジャムチの整備をしました。全領土に網目状に結んだ道と番屋を作り、番人を駐在させて狼煙の設備と伝令用の替え馬を置いたそうです。

帝国のどこかで謀反や争いがあった場合、直ちにその情報はモンゴル高原にあった首都カラコルムの大ハーンのもとに届けられて鎮圧部隊が派遣されたそうです。素早く、正確な情報が伝達されなければあのような大帝国の維持は不可能であったに違いありません。戦における情報の大切さを熟知していたということです。これはデジタルとアナログの両方の利点を生かしたハイブリッド方式で、うまく考えたものです。

今はパソコンや携帯電話がインターネットによって繋がり、世界中の通話が無料でできます。娘がポーランドに住んでいますが、妻は毎日のように娘や孫との会話を楽しんでいます。私の大学生の時のヨーロッパ旅行の不便さとは大きな差です。

大学を卒業してから商社に入社しました。その頃はテレックスが最先端で、待ち時間なしにしかも電報よりかなり安価に情報が文書で送受信できるのに驚いたものです。更に伝達費用を安くする為に英語の単語を略して、それでも分かり易い文章を作るのに憧れを覚えたものでした。

1981年、大阪ではすでにコンピューターが導入されていてテレックスは簡単に操作できましたが、エジプトのカイロ事務所に出張した際は紙のリボンに文面を打ち込む方式でしたので、何と不便なものだと感じました。ちょうどその頃ファックスが発明されました。テヘランに出張した時に紹介すると、『これで図面が送れる事になって大変役立ちます』と喜ばれました。その頃はなんと1台が100万円もしました。

1993年、40歳で独立した時、最初に買ったのがワープロと既に20万円になっていたファクスでした。雨の日に日本橋で買って、傘をさして事務所に運んだので嬉しかったのと重かったのを覚えています。このワープロは海外出張にも持っていきました。それから2-3年して、携帯電話も一般的になり、事務所に不在でも情報交換ができるようになりました。

固定電話の回線使用料が月40万円を超えたころ、国際電話の回線会社が4社ほどになり、約半年ごとに契約先を変えて徐々に料金が下がっていきました。それから2~3年して、女性セールスの人が訪問されて、電子メールを紹介されました。これは通話料金不要でその代わり、コンサルタント料を月に2万円払うというものでした。

今はインターネットや携帯電話が発達して、複数地点での動画付き国際通信が無料でできるようになりました。短期間に発達したものです。それに伴って、スピードと正確さが求められていたものが、相手の心に響く高度なアナログ表現方法が求められるようになりました。

世界中でコロナ禍が蔓延した為、国際間の移動や国内での外食まで制限されるようになりました。一方通信手段が安くなった事により、今は自宅からでも世界中と通信できます。そして様々なところでアナログの価値が復活してきています。まさにヘーゲルの螺旋的発展の法則『世の中の変化や発展、進歩や進化においては懐かしいものが新たな価値を伴って復活してくる』を実感します。

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