日本の学習に対する社会システムの現状
今の日本の社会では、大学に入学した時か大学を卒業した時のいずれかの時に脳を使わなくなります。文科系に進んだ学生のほとんどは入学した途端に、理科系に進んだ人でも大学を卒業した途端に脳を殆ど使わない生活を送るようになります。私は工学部の出身で、ある程度勉強した方ですが、授業内容が社会に出てから役立ったという事は殆どありません。
この場合、脳を使うというのはシュミレーション能力の発動です。つまり抽象思考をする事です。抽象思考とは抽象度を上げて物事を考える事や認識する事です。科学的発見や、数学的証明、芸術などの創造物は人間が抽象思考を重ねた末に生み出されたものです。抽象思考をするからこそ人間はクリエイティブな能力が発揮できるし、進歩や成長があります。
ところが、今の日本人は若いうちに抽象思考をする機会を失います。ぼんやり講義を聞いていればいいような大学生活はその元凶の入口ですが、会社も実はほとんど頭を使わずにいられる場所です。むしろその芽を摘んでしまう所です。
ほとんどの経営者やマネージメント側の人は常に命じるままに社員が動く事を期待しています。彼らが社員に何を求めているか。それは自分の言う通りに動いてくれて、少しでも売り上げを伸ばすとか、利益を増やす事です。『創造性を発揮せよ』とか『オリジナリティを持て』とかの激を飛ばしたりもしますが、多くの場合それらは政治的パフォーマンスつまり虚構です。
本音の部分ではへたに仕事の本質を見抜かれて疑問を抱かれてはまずいし、勝手にやり方を変えられても困ると考えています。
『空』
一方、思考の抽象化を続けると、常にそれよりも一つ上の抽象度があると気づきます。仏教には釈迦が提示した『空』という状態があります。それは『更に上の抽象度』という意味です。
一般的には『固定的実体がない事』とか『我のない事』という解釈がなされているようですがそれではあたかも『空』という固定的な状態が存在するという誤解を与えてしまいます。
釈迦は弟子たちの質問に答える形で教えを授けましたが『死後の世界はありますか?』という質問には答えていません。仏教ではそれを『無記』としています。それは判断を示さずに沈黙を守り、無用の論争を避けて『苦しみからの解放』と言う本来の目的を見失わないようにする態度であったと解釈されています。
それは答えると、聞いた相手が、その瞬間に思考そのものをやめる事になるからです。釈迦の言う『縁起瞑想』は『死ぬまで考え続けなさい』という意味です。『考えるのをやめてはいけない、死ぬまで考え続ける事が空の境地』という事だからです。
『空』とは終わりのない抽象度の高みに上がろうとする事です。考え抜いた末に『これで全て分かった』と思っても『まだその上が在りますよ』というのが『空』です。
この釈迦の教えに従って更に上へ、更に上へと抽象度を高めていく事でIQも無限に高まります。瞑想をはじめとする仏教の修行には多くのIQを高めるワザがあります。その時代にはIQや抽象思考という考えは無かったのですが、釈迦はIQを高める事が悟りの境地に近づく方法であると、経験的に知っていたのでしょう。
現在に生きる私達も『空』の意味と価値を知り、『人は皆必ず死ぬ。そして自分はいつ死ぬか分からない、それは明日かもしれない』という現実の『死生観』を持って生きる事で価値ある人生にできるのではないかと思います。