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吾唯足知(われただたるをしる)

大学生の頃、英語会話経験の為に石庭で有名な龍安寺を度々訪問しました。建物の裏庭側の廊下から手が届くところに手を洗う水を溜めた『つくばい』が置かれていました。そこに書かれていた模様が『吾唯足知(われただたるをしる)』でした。これはニュアンスを含めた英語で説明するのが難しかった事を思い出します。

吾唯足知(われただたるをしる)

坂本龍馬が薩摩と長州を同盟させる事に成功し、自ら新政府の人事構想を考えました。その紙を西郷隆盛や桂小五郎に見せた時、二人はそこに龍馬の名前が入っていない事に気づきました。『どうしてあなたはそこに自分の名前を入れないのですか?』と二人が言うと龍馬はこう答えました。『私には政治家としての器も無いし、政治家になると自由もきかなくなる。新政府を樹立するだけで満足なのです』

要するに龍馬は『薩摩と長州が同盟を結び、幕府を倒して新しい国家が誕生するだけで自分には十分。それ以上は望まないし、望もうとするとキリがない』という『足りている事を知る』を心掛けていたのです。

地位や名誉やお金に執着している人は『あり得ない!』と思うかも知れません。お金も地位も名誉も一見幸せを与えてくれそうな感じがしますが、実際はそうではなく、次第に『もっと上の地位・名誉が欲しい』『もっとたくさんのお金が欲しい』といった更なる欲求が生じてきます。

その為には、もっと頑張ってもっと働かねばなりません。すると、ストレスもどんどん増えていきます。つまり、気の休まる暇が無くなってしまいます。

『足る事を知れば、貧といえども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれこそ貧と名づくべし』これは源信という往生要集を著した平安時代のお坊さんの言葉で『財産や豪邸があっても、まだ足りないと思っている人は心が貧しい為、不幸な人生を歩む事になる。しかしこれで十分だと思っている人は心が富んでいる為、幸福な人生を歩む事が出来る』という事を意味しています。

三毒

物質的にいかに恵まれていようとも、際限なく欲望を追いかければ、不足を感じる事になります。心の中は不満でいっぱいになり、決して幸せを感じる事はできません。一方物質的には恵まれず赤貧を洗うような状態であっても満ち足りた心があれば幸せになれます。

つまり幸せかどうかは人の心の状態によって決まるのであり、『こういう条件を満たせば幸せだ』という基準はありません。死ぬときに『なんと幸せな人生だったのだろう』と感じられるように自分の心を作っていく事こそが大切です。そうした幸せを感じる『美しい心』が無ければ決して幸せにはなれません。

『それでは美しい心を造っていくにはどうすればいいのでしょう?』人間には108つの煩悩があると言われています。この煩悩が人間を苦しめている元凶だとお釈迦様は説かれています。またその煩悩の中で最も強いものとして『欲望』『愚痴』『怒り』という三毒をあげています。

私達人間はこの三毒に捕らわれて生きています。人よりもいい生活をしたい。楽して儲けたい。早く出世したい。こういう物欲や名誉欲は誰の心にも潜んでいます。そしてその欲望が叶わないとなると、なぜ思った通りにならないのかと怒り、返す刀で望むものを手に入れた人に嫉妬を抱きます。

大抵の人はこういう煩悩に四六時中振り回されて生きています。しかし、三毒に振り回されている限り、決して幸せは感じられません。

足るを知る

人間は生まれてから死ぬまで一人で旅をしなくてはなりません。その中で常に死に脅かされまた自分の心が造り出した三毒に脅かされて生きていかねばなりません。その為にお釈迦様は持戒(道徳規範)を持ち、利己心や煩悩を抑える事が必要と説いてられます。

もちろん利己心や煩悩は人間が生存して行く為に必要なエネルギーですから、一概に否定するわけにはいきません。しかし、それは同時に人間を絶えず苦しめ、人生を台無しにしてしまいかねない猛毒も有しています。そうした利己心や煩悩が自分たちを不幸にしてしまう事があります。

一方人間には元々、煩悩の対局に位置する素晴らしい心があります。人を助けてあげるとか、他の人の為に尽くす事に喜びを覚えるといった美しい心は誰もが心の中に持っています。しかし煩悩があまりにもりに強すぎるとなかなか表に出てきません。

その為にお釈迦様は『足るを知る』事、つまり幸せを感じる心を養う事が大切だと言っておられます。ガツガツと欲を募らせ、怒りに任せて、不平不満を並べて生きるのではなく、心の豊かさを育む事の大切さを教えて下さっています。足るを知り、日々感謝する心を持って生きる事で、人生は真に豊かで幸せなものになっていきます。

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