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自由人とは
過ぎた半生の中で自分の意志とは関係ないのですが世界の3大宗教に触れる機会がありました。その中で特に若い時に影響を受けたキリスト教に関して印象に残っている話を紹介させて頂きます。
高校生の頃、キリスト教の授業で一番高位の愛は『アガペー』と言って見返りを求めないもので、神の愛はこれですと教えられました。その時は何を教えられているのかさっぱり意味が分からなかったのですが、50年の人生経験を積んだ今になってやっと朧気ながら自分にとっての意味がほんの少し分かるようになってきました。
心の自由と依存心
『なにはどう、あるべきだ』という思い込みをたくさん持てば持つほど心が不自由になります。例えば『家族は私に優しくあるべきだ』『あの人は私の立場を理解するはずだ』『私は感謝されるべきだ』等々、思い込みが多いと、事実がそれにそぐわない時、苦しみが多くなります。特に自分自身に対しての思い込みは、上から目線的視野に立っている場合が多く他人との関係で自分を苦しめる事になります。
『優しくしてくれるに越したことはない』『理解してくれたら儲けもの』『感謝されたらありがたい』くらいに考えておくと心が自由になります。なぜかと言うと結局思い込みとは実現するのに他人に依存する部分が多いからです。ここに気づかないで生きているといつの間にか自分が愚痴の多い『くれない族』の一員になってしまいます。
あくまで自分の思い込みを守って不幸せになる自由もあれば、『感謝されたら有難い』という気持ちを持つ自由もあるという事です。『でもそれでは損をする』と思うかも知れません。そこで考えるのは感謝されるべきなのにされない時の『損』の性質とその為に自分の心が乱され続ける事の『損』の性質との比較です。
私は、まず前者の損を受け止めて怒りも悔しさも一応味わってみる事にしています。その後で『こんなことで今日一日、いやな思いをさせられたのではたまったものではない』と視点を変え、『感謝されるに越したことはないけど、されなかったからといって、どういう事はない』と思い直すようにしています。言い換えれば自分の心がアガペーとは程遠い物であったと反省する事にしてします。
世の中は決して自分の思い通りになるものではないし、いつまでもその事なり、人にこだわっているよりも、そこから自分を解放する事の方が、精神衛生上もどれほど良いかわかりません。
自由人
自由人とはより良く生きる力を備えた人の事です。身に付けた知識・技術などをよく使う人の事です。それは自分の幸福だけでなく、周囲の人々、特に弱い人、貧しい人達の幸せを考え、その為に奉仕する事の拡がり、教養を備えて生きていくことです。
自由人の自由とは『あなた方には脱いだ履物をそろえる自由があります』また『揃えない自由』もあります。その時、理性で考えてでも『より良い方』を選ぶ。これが人間のあるべき姿です。『自由人』です。教養ある人の取るべき行動です。
『自由に生きる』とは好き勝手な事をするのではなく『よりよく生きる自由』を選ぶ事です。オーストリーの医者であり、心理学者のビクターフランクルは言っています。『人間の自由は、諸条件からの自由ではなく、それら諸条件に対して、自分の在り方を決める自由である』
彼自身も強制収容所の生活をしていましたが、ナチスによって収容所に送られた人々は持ち物も家族も何もかも剥奪され、連日死の恐怖と苦悩の中で生きなければなりませんでした。人間の極限状態に置かれていました。そんな中である日、同僚の中に病人が出た時の事です。翌朝その病人の枕元には数個のパンとスープが置かれていました。
病人の回復の為に自分達は空腹のままパンを置いて仕事に出て行った『自由人』たちの仕業だったのです。自分が置かれた条件に自分らしく立ち向かい、『より良く生きる』のを選ぶのが、自由人です。
若かった頃、折角そういう気持ちの自由人から授かった行為に対して正しく反応できていなかった事を反省しています。