
日本×キューバ夫婦のアラバマ子育て物語 第10話 深遠なる贈り物
この連載は、アラバマ州タスカルーサに住む日本出身の著者とキューバ出身の妻ダイレンが、文化と言語と社会のはざまで右往左往しながら、初めての子どもヤスオ(仮)を育てる物語です。出産予定は2025年4月15日。1話ずつ単独でも読めるように心がけていますが、まとめて読みたい方はこちらのマガジンよりどうぞ。
ドナルド・トランプがふたたび大統領に就任した月曜日、南部アラバマにしては珍しい氷点下の寒波だというのに、TRUMP2024の横断幕を掲げた向かいのコンドミニアムの大学生たちは、ベランダで大音量のGod Bless The U.S.Aをかけながら、真っ赤な缶のバドワイザーを飲んで盛り上がっていた。
「アメリカ人であることを誇りに思う」という歌詞が聞こえてくる。トランプが当選した晩のように花火こそ上がらなかったが、新大統領の就任をこの寒さのなかで祝っているのだろう。
北海道生まれのはずのぼくは、この3年で温暖なアラバマに順応し、部屋のなかで毛布にくるまっていた。逆にここより南のキューバ出身の妻ダイレンは寒いアラバマに慣れ、平気な顔をしている。
キューバ料理の黒いんげん豆の炊き込みご飯の昼食を食べながら、テレビで大統領就任式をつけてみた。最初は「ほら、あんたの大統領だよ」とお腹の子にむかってふざけていたダイレンが、演説を聞くうちに「やなかんじ」と表情をくもらせ始めたので、バイデン前大統領がヘリコプターに乗り込んだあたりでテレビを消してしまった。だから、そのあとの大統領令に次々とサインするパフォーマンスをぼくたちは見なかった。でも、そうやって目を背けても、彼が署名する書類の力からぼくたちは逃れることができない。
4月に産まれてくる予定の我が子ヤスオは、日本とキューバに加えて、アメリカ国籍も取得する予定だった。アメリカ合衆国は昔から、国土の上で生まれた者が国民となるという「出生地主義」をとっているからだ。旭川の両親にそのことを言うと、「やっぱり、移民の国だねえ」と納得しているようだった。
しかし、この日、新大統領がそれをひっくり返した。
友人から「市民権、面倒なことになってるよ」と連絡をうけて、ぼくたちはそのニュースを知った。この出生地主義を修正する大統領令が出たという。「合衆国市民権という特権は、貴重で深遠なる贈り物である」と謳うこの命令によれば、滞在資格をもたない移民の子のほか、合法的にアメリカに滞在している外国人であっても、留学や仕事などの一時的な在留資格で滞在しているひとの子どもには、市民権を与えないらしい。「交流訪問者」という資格で期限付きで滞在するぼくたちはこれに該当するようなので、ヤスオはアメリカ国籍を取得できないことになりそうだ。
たしかにトランプはずっと前からそんなことを言っていた。でも、ぼくたちは「またなんか言ってるな」と聞き流していた。ニュースの法学者たちも、出生地主義は合衆国憲法にはっきり定められている原則だから大統領といえど変更はできないと言っていた。トランプが問題にしているのは滞在資格のないひとたちの話だろうと、心のどこかで他人事のように捉えていたのも事実だ。ちゃんと資格を得て滞在しているぼくたちには当てはまらないだろうと。
このニュースを聞いたダイレンは、呆れたような顔をしてから、キューバに住む家族にテレビ電話をかけた。
「トランプが命令を出して、ヤスオはアメリカ国籍をとれなくなったんだって」とダイレンは家族にむかってスペイン語で言った。「だから、すぐにヤスオを見せには行けなくなったからね」
認知症の初期症状が出始めているダイレンの祖父は、「また次の政権になればころっと変わるさ」と気の長い返事をした。心待ちにしていたであろう祖母は、「どうしようもないね、しかたのないことだね」と繰り返した。
ダイレンはキューバの首都ハバナで、母親とその両親である祖父母のもとに育った。母親には障がいがあり、祖父母はダイレンにとって育ての親のような存在だ。彼らにとってダイレンは唯一の孫で、その孫が子どもを産むのをひどく楽しみにしている。ぼくたちはハバナの家族に赤ん坊をどうしても見せたいと考えてきた。今年、祖母は85歳、祖父は81歳になる。
電話を切ったダイレンは「家族がまだ生きているうちに、この子を見せたい」と言った。それからシャワーを浴び始めたが、水の音にまぎれてすすり泣く声がバスルームの外まで漏れていた。窓の外では、リー・グリーンウッドが「アメリカ人であることを誇りに思う」と歌っていた。
* * *
この変更によって人生計画が根本からひっくりかえってしまうひとたちもいるはずで、そんなひとたちに比べたら、日々の暮らしを続けていくことができそうな我が家はずいぶん恵まれているのだろう。それに、血統主義をとる日本だって外国籍の親の子たちに国籍を与えていないのだから、アメリカだけにそれを要求するのも身勝手なのかもしれない。それでも、キューバの家族に赤ん坊を見せられないのは、ぼくたちにはつらいことだ。
ヤスオはぼくたちの滞在資格に準じて、交流訪問者としての滞在資格証が発行されるから、合法的にアメリカに滞在し続けることはできる。しかし、ちょっとややこしいのだけど、滞在資格証とビザ(入国許可証)というのは別物で、滞在資格証をもっていても、アメリカ国外にいったん出たばあい、いずれかの国のアメリカ大使館でパスポートにビザを貼ってもらわなければ、アメリカに再入国することはできない。
ぼくとダイレンのパスポートには、日本にあるアメリカ大使館が発行したビザがすでに貼ってあるから、ぼくたちふたりはキューバに行っても、アメリカに戻ってくることができる。ヤスオは、昨日までのアメリカのままだったら、出生によって市民権を取得し、アメリカのパスポートで再入国ができるはずだった。国民であればもちろんビザはいらない。しかし、この大統領令によって、ヤスオがアメリカに帰ってくるには、どこかのアメリカ大使館で面接をうけて、ビザを取得する必要がでてきた。
このアメリカのビザをどこで取得するかがぼくたちには問題となる。キューバとアメリカは1961年のキューバ革命によって断絶していた国交をオバマ時代の2015年に回復し、アメリカ大使館が首都ハバナに開かれた。しかし、トランプ政権第一期にこの大使館はふたたび閉鎖され、現在までドアは閉じられたままだ。だから、ヤスオがアメリカに入国するためのビザをキューバで取得することは現状ではできない。
日本まで行けば、東京のアメリカ大使館で取得することは制度的には可能だ。ただ、アラバマから目と鼻の先のキューバとは違い、日本はすごく遠い。新生児に負担をかけずに往復できるようになるまで、いましばらく時間がかかる。ハバナの祖父母がそれまで元気でいてくれることを、ぼくたちは祈るしかない。
* * *
この大統領令は家計にも直撃した。
この3年間はおもに、ぼくがアラバマ大学講師としてうけとる手取りで月25万円の給与と、ダイレンが午前4時からウォルマートで働いて稼ぐ給与をあわせて、インフレが止まらないアメリカをなんとか生き延びてきた。
去年秋から、日本の機関から研究支援を受けられることになり、それでダイレンが仕事をやめてもぼくの収入だけでぎりぎりやっていけると判断し、子どもをもつ計画を立て始めた。ぼくたちの年齢的に、子どもをもつには時間があまり残っていなかった。
月15万円の家賃につぐ大きな固定費は健康保険料だ。日本とはちがって、アメリカには国民全員が加入する公的医療保険制度はない。ぼくは勤務先の福利厚生で健康保険を無償で支給されているが、ダイレンは自分で民間の健康保険を購入しなければならず、それが年間50万円くらいの出費となっている。公的保険ではないから、世帯収入が少なかろうと保険料が安くなることはない。
子どもが産まれてさらにもう一人分の保険料50万円を毎年払うのは厳しいから、低所得者向けのメディケイドという公的健康保険に加入できないか、ぼくたちは州の事務所に電話をかけて事前に確認していた。いわく、我が家の世帯収入だと間違いなく貧困家庭に該当するだろうから、生まれしだい申請してくれとのことだった。外国人であるぼくとダイレンは、アメリカ滞在資格証をうけとる条件として、自分で健康保険を用意することを義務付けられているが、アメリカ国民として産まれる子どもは、それには該当しないはずだった。
だから、今回の変更によって、妻と子の健康保険で毎年100万円が出ていくことになる。家賃も生活費もどんどん上がるし、出産や子育てにまつわる高額な医療費もかかってくるはずだ。ヤスオがしっかりしてきて、アメリカのビザを取得しに行けるようになったとしても、家族3人で日本まで往復する費用を捻出できる気はしない。
* * *
この大統領令が合衆国憲法に反するとして、22の州が差し止めを求める訴訟を起こしたとニューヨークタイムズは伝えている。
1868年に批准された合衆国憲法修正第14条は言う。「合衆国において出生し、又はこれに帰化し、その管轄権に服するすべての者は、合衆国及びその居住する州の市民である」
この条文は、ごく一部の例外をのぞいて、アメリカ合衆国において出生したすべての者が合衆国の市民であると理解されてきた。例外は「管轄権」に服さない者、つまり、アメリカの司法・警察・支配の権限の及ばないひとたちで、制定当時は先住民を排除するためにこの文言が入れられたそうだが、その後は、外交特権によって司法権がおよばない外国の外交官の子どもや、外国の軍隊の制圧下におかれた合衆国領土内で生まれた子どもといった、きわめて限定的な状況を指すものだと解釈されてきた。
今回の大統領令は、この「その管轄権に服する」という部分の解釈に挑戦している。不法滞在者や一時的滞在者の子は「管轄権」に服していないというのだ。
合衆国内で生まれ、かつ合衆国の管轄権に服さない個人の範疇のなかで、以下のような合衆国生まれの者には、合衆国市民の特権が自動的には及ばない。(1)その者の母親が合衆国に不法に滞在しており、その者の誕生の時点で、父親が合衆国市民でも適法な永住者でもない場合。または、(2)その者の誕生の時点で、母親の合衆国への滞在が合法ではあるが一時的(ビザ免除プログラムの援助で合衆国を訪問中である場合や、学生、就労、観光ビザで訪問中である場合などを含むが、これに限らない)であり、その者の誕生の時点で、父親が合衆国市民でも適法な永住者でもない場合。
こうした憲法解釈には法曹関係者の大半が異議を唱えているようで、タイムズは「長い法廷闘争になるのが確実だ」と言っている。
しかし、いまを生きるひとたちにとっては、3年後に違憲判決がでたからといって、なんだというのだろう。ぼくたちには今後数ヶ月の見通しがぜんぜんわからない。
大統領令はすべての州で即座に実行に移されるのだろうか。この大統領令が有効となる2月19日より前に裁判所は差し止めることができるのだろうか。差し止めは訴訟を起こした州のみが対象となるのだろうか。カリフォルニアでは差し止め、アラバマでは有効、みたいな複雑な事態になるのだろうか。そうなったらカリフォルニアかどこかで病院を探して出産すればいいのだろうか。ぼくたちの健康保険は州外でも使えるのだろうか。カリフォルニアで認められた市民権はアラバマでも有効なのだろうか。
「こりゃあ困ったな」。シャワーを終えて水を飲むダイレンに、ぼくは冗談めかして言った。「あと1ヶ月で産むしかないね」
大統領令が有効になる2月19日より前に生まれれば、ヤスオはアメリカ国籍を取得することになる。でも予定日は4月15日だ。
「こんなくだらない市民権なんて、こっちから願い下げだわ。アメリカ人になんて、ならなくて結構」。そう言い切ったダイレンは笑ってなどいなかった。「わたしがほしいのは健康な子どもだけ。きっちり予定日までお腹で育ててから、産んでみせる」
第11話 英語だけがアメリカじゃない につづく
↓こちらのマガジンに全話まとまっています↓
下のハートを押して応援を! 子育てや海外生活のアドバイスなどコメントいただけるとうれしいです。フォローがまだのかたは下のプロフィールよりどうぞ。マガジンのフォローもできます。