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犬だった君と人間だった私の物語【第7話】奇跡


 その時だった。
 突然、見たことのない青年が、ひょっこりとケージの前に現れた。
「大丈夫? もう行っちゃったけど」
 びっくりした敏子は思わず後ずさりをした。白いシャツにデニムパンツ姿で首にカメラをかけたその青年は、大きく澄んだ目で窓ガラスから敏子のいるケージを覗き込んでいる。
「のんちゃんって、さっきの女の人? 何かあったの?」
 その言葉を聞いて敏子は目を丸くした。あれほど名前を呼んでも紀花に届かなかった自分の言葉が、なんとこの青年には通じているではないか。敏子は信じられなかった。そして恐る恐る言葉を口にしてみた。
「私の言葉が分かるの?」
 すると、青年は少し興奮しながら答えた。
「うん。なぜか、君の言葉が分かる」
 敏子には、この青年に後光がさしているように見えた。これは夢? いや、奇跡が起きているのだ。この青年は何者なのか、なぜこの青年は自分の言葉を理解できるのか、分からないことだらけだったが、まさに渡りに船、敏子には紀花のためにこの青年を信じて助けを乞う以外の選択肢はなかった。
 敏子は急いで窓ガラスに張り付くと、青年も敏子の話を聞こうと窓ガラスにさっと顔を寄せた。いつもおっとりとした敏子だが、この時ばかりは早口だった。青年は犬と会話をしていることを通行人に悟られないよう、周りを気にしながらも敏子の話を最後までしっかりと聞いた。
(この青年は紀花を助けるために現れたに違いない)
 しかし、青年の返事は現実的だった。
「それは……どうしたらいいんだろう。だって、今いるその彼とは別れた方がいいですよって……見ず知らずの僕が言うってことだよね、その彼の目の前で。それはいくらなんでも……」
 その時、また他の客が近寄ってきた。青年は慌てて咳ばらいをしてごまかした。
「お願い! 私はこのケージから出られないの!」
 敏子はこの奇跡が消えてしまう不安に駆られ、畳み掛けるように青年に訴えた。
 その時だった。向かいのコンビニから、紀花と男が買い物を終えて出てきたではないか。
「お願い!」
 懇願する敏子と、コンビニから出て来た二人の狭間で、青年はおろおろと慌てだした。
 すると敏子はさらに大きな声で訴えた。
「紀花を助けられるのは、あなたしかいないの!」
 敏子のその言葉を聞いて、青年は強く目をつぶった。そして意を決してコンビニの方を振り向くと、力んでぎこちない歩き方で紀花と男の所へ近付いていった。
「すみません……あの……あなたのおばあさんがですね……あの……」
 振り返った紀花は、目を丸くしてぽかんとした表情を浮かべた。
「え?」
 すると男は、怪訝そうな顔をして紀花に尋ねた。
「誰? 知り合い?」
 遠慮がちに首を横に振る紀花を見ると、男は青年に冷たい視線を送りながら言った。
「いいよ、早く行こう!」
 青年は、男の目つきが一瞬で冷たく、そして鋭く変わったのを感じゾッとした。青年がひるんだその隙に、男は紀花の細い腕を引っぱると、雑踏の中へ足早に去って行った。
 その場に取り残された青年は、緊迫から解放された脱力感と同時に、大きな無力感が広がっていくのを感じた。どれほど敏子が落胆しているかと思うと、青年は敏子の方を振り返る気持ちにはなれなかった。地面に視線を落としたまま、ペットショップの前にゆっくり戻ってくると、そこでやっと顔をあげた。悲しい目で敏子を見つめ、小さな声で伝えた。
「……ごめんなさい。力になりたかったけど、役にたてなかった。ごめん……」
 青年は自分の不甲斐なさに嫌気がさしたように片手で髪の毛をくしゃくしゃにすると、うなだれるように頭を下げ、申し訳なさそうに店の前から去っていった。
 
 敏子は外を向いたまま、動くことができなかった。
(確かに奇跡が起きたはずだった……)
 それにも関わらず結局、紀花を助けることは出来なかった。この奇跡はなんのために訪れたのか。
(期待だけ持たせる奇跡は、余計に心を苦しめる)
 敏子は思った。そして倒れるようにぐたっと体を横にすると、またぼーっと宙を見つめた。間もなくして夕食のドッグフードが運ばれてきたが、敏子は半分も食べられなかった。
 夜になり店の照明が消えても、敏子の落胆は続いた。
(落ち着いて考えれば、あの青年には無理なお願いをしてしまったわ……)
 冷静になった敏子は、自分を責めて目をつぶった。
 深夜、すやすやと眠る他の動物たちの寝息がやけに気になり、敏子は寝付けずに何度も寝返りをうっていた。こんなに寝心地の悪い夜は初めてだった。
 
 あれから、あの青年は敏子の前に現れなかった。
 
 残念なことに、紀花の恋人は相変わらずだった。違う女性と仲良くしている様子を目にすると、敏子は気分が悪くなった。紀花が一緒にいる姿を何度か見かけたが、言葉が伝えられない敏子は、ただただ静かに紀花に愛のまなざしを送ることしかできなかった。犬になり、このケージから出ることができない自分の無力さを痛切に感じていた。
 
 灰色の低い雲から落ちてきた雨が、コンクリートの地面をパタパタと濡らし始めた。まるで敏子の代わりに空が泣いてくれているようだった。

第8話につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

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