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犬だった君と人間だった私の物語【第8話】理由


 強い雨の降る夜
 敏子が水滴でゆがんだ窓ガラス越しの夜の街をぼーっと眺めていると、目の前に突然、自分の言葉を理解したあの青年が現れた。敏子は驚き、うつ伏せていた顔をはっと上げた。一ヶ月ぶりである。大きなビニール傘を持っているが、急いでやって来たようで青年の髪やシャツは雨で濡れていた。そして青年は静かに語りだした。
「僕がなぜ君の言葉を理解できるのか」
 敏子はゴクリと唾を飲んだ。
「それはきっと、僕が人間になる前は犬だったからなんだ」
 敏子は目を丸くした。
「でも、どの犬の言葉でもわかる訳じゃない。僕は幼い頃、犬の会話が理解できるのは普通のことだと思っていたんだ。でも、自分が成長するにつれて、だんだんと鳴き声にしか聞こえなくなっていった。今はもう、どの犬の言葉もわからない。でもなぜか、なぜか君の言葉はわかるんだ」
 視線を合わせたまま敏子は体を起こし、その場に座り直した。青年は言葉をかみしめるようにゆっくりと続けた。
「君はなぜ僕の言葉が分かるの?」
 敏子は自分が人間の言葉を難なく理解できることに何の疑問も感じていなかった。しかしよく考えてみれば、まだ仔犬で人間に飼われたこともない自分が、当たり前のように人間の言葉を理解できるのは、あまりにも不自然だった。
 青年は話を続けた。
「もしかしたら君は、犬になる前は人間だったんじゃないかな?」
 青年の核心をついた質問に、敏子はドキリとした。そして、青年の目を見据えたまま無言でしっかりとうなずいた。今何かを口にしたら、この奇跡がはじけて消えてしまいそうな気がして言葉を発せられなかったのだ。青年は少しほっとしたような表情で頷いた。
「犬だった記憶がある人間と、人間だった記憶がある犬。だから君と僕は会話ができるのかもしれない」
 そう言うと青年は大きく深呼吸をした。これから何か大事な話をするに違いない。敏子はそう感じた。
 敏子の予想通り、青年は真面目な顔をしてゆっくりと話し始めた。
「突然こんな話をすることを許してほしい。僕は人間になる前、ゴールデンレトリバーのラブとして生まれたんだ。でも生まれて数ヶ月の頃、僕は茂みに隠れていた水路に落ちて生死の境をさまよった。自分で虫を追いかけ足を踏み外したのに、一緒に遊んでいた弟犬のリクは、自分のせいで僕が水路に落ちたと思い泣き叫んでいた。僕は自分で落ちたんだと伝えたかったけど、瀕死の状態で何も話せなかった。そして、リクにそれを伝えることができないまま、僕は死んだ」
 青年は少しの間沈黙した。敏子も黙ってその沈黙を見守った。
「こんな大きな心残りがあったせいか、僕は人間になり切れなかったみたいなんだ。あの時の事は全部覚えている。僕はリクに『君は何も悪くない』と伝えたい。人間に生まれ変わってからずっと、そう思ってリクを探してきたんだ」
 敏子は青年の目を見たままゆっくりとうなずいた。雨音で青年の声は聞き取りにくかったが、敏子は必死に耳を傾けた。人間として生まれてからこんなに大きくなるまで、ずっと弟犬を探し続けていた青年があまりにも健気だった。
「ゴールデンレトリバーの寿命は十二、三年。いくら長くても十五歳程度だから、僕はもう諦めていたんだ」
 それを聞いて、敏子は胸が締め付けられるような気持ちになった。弟犬のリクは、もう亡くなっているということか……。しかし、青年は続けた。
「でも昨日、僕はついにリクを見つけたんだ。奇跡的にリクはまだ生きていたんだ。僕が死んだ後、飼い主が引っ越す時にリクはこの近所に住む家族にもらわれて大切に育てられていた」
 そう言うと、スマートフォンを取りだしてその画面を敏子に見せた。そこには、ここ数年は寝たきりであっただろう年老いたゴールデンレトリバーが、病院に入院する様子が掲載されていた。写真の下のテキストには、『愛犬リクが入院しました』と書いてある。
 青年は、SNSにアップされた年老いたリクと病院が写っている写真を見て、それがこのペットショップに併設する動物病院であることを突き止めたのだった。
 青年はゆっくりと続けた。
「だけどね、僕の言葉は普通の犬には通じない。あの時、僕が水路に落ちたのはリクのせいじゃないと説明したくても伝えられないんだ。それどころか、僕が兄弟犬のラブであることすら、伝えられない」
 ここまで話すと、青年は少しの間沈黙した。そしてまた大きく深呼吸をすると、敏子の目を見て言った。
「僕のお願いを聞いてもらえますか。SNSを見る限り、もうリクの寿命はほとんど残っていない。だから、リクが死ぬ前に、リクは何も悪くなかったことを君から伝えてほしいんだ」
 まばたきを忘れて驚く敏子の様子を見て、青年は続けた。
「僕は、君の願いを叶え……」
 ちょうどその時、店員が店の外に出てきた。
「すみません……閉店時間が過ぎてまして……」
 店員は申し訳なさそうに告げると、ひさしの内側に身を寄せ、雨粒を避けるようにしながら店のシャッターを下ろす準備を始めた。強い雨が地面で跳ね、店員の足を冷たく濡らした。青年の靴とズボンの裾はびっしょり濡れて色が変わっている。
 店員の前で会話を続けることができず、青年は澄んだ目を寂しそうに潤ませながら敏子をじっと見つめた。そして手に持っていたビニール傘をゆっくりひろげると、そのまま雨の中へと消えていった。

 濡れた窓ガラスのせいで駅前の光がゆがみ、いつもよりもまぶしく見える。青年は泣いていたのか、それとも濡れたガラスのせいでそう見えただけなのか。雨に濡れる夜の街にぼんやりと目を向けながら、敏子は青年の願いを叶えることができるのか、じっと考えた。
 
 
 敏子の目には、青年が見せた老犬リクの写真が焼き付いていた。病室で親族に囲まれながら天に召された自分の最期を思い出すと、今にも旅立とうとしているリクの姿と重なりはじめた。
(もしリクが必要のない罪悪感を抱きながら天に召されるとしたら……)
 敏子の胸は締め付けられた。
(私は紀花を助けられずにいる…… でも、犬になったからこそ、助けられる人や犬がいる!)
 敏子は強く頷き、青年とリクを助ける決意を固めた。
 
 敏子がケージを出られる時間は限られている。ケージの掃除の時、トリミング室で体を洗われる時、そしてお客に気に入られてご指名が入った時だ。
 しかし、もしケージの外に出られたとしても、トリミング室の奥にある重い扉を開けて、併設病院までたどり着くなんてことは、どう考えても仔犬の敏子には不可能だった。
(いったいどうすれば助けられるの……)
 敏子は頭を抱えた。

第9話につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

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