犬だった君と人間だった私の物語【第1話】別れ
(おかげさまで、幸せな人生でした)
病室のベッドの上で、一人の高齢女性が今にも天に旅立とうとしていた。
その女性、敏子の意識は、幼い頃からの懐かしい思い出の中をゆっくりと漂っていた。穏やかに動くその走馬灯は、幼少期に感じた両親の温もりや、学校の友人たちとの楽しい会話、買い物帰りに見ていた夕暮れの風景や、幼い我が子の小さな手を握る感触までをも思い出させていた。
敏子の最期を看取るために、個室には数人の親族が静かにベッドを囲んでいた。弱くて短い敏子の吐息と、心音を鳴らす電子音。そして、集まった面々が鼻をすする音がやけに響いている。
静かに流れていた敏子の走馬灯の旅は、ゆっくりと病室にいる「今」へとつながり、敏子はベッドの上にいる自分の状況を改めて受け止めた。
そしてついに、敏子の心音の間隔はまばらになり、看護師が医師を連れて病室に入ってきた。天に召される瞬間が近づいてきたと、誰もが感じていた。
再び薄れていく意識の中で、敏子は集まっている親族への別れの言葉を心の中で紡いだ。
(優しい両親に愛され、頼りになる夫にも恵まれ、かわいい子供はいつの間にかこんなに立派になって幸せな家庭を築いている。今まで長生きさせてもらって、もう何一つ悔いはないわ)
そして、敏子は最後の力を振り絞り、うっすら瞼を開けると、ゆっくり口を動かした。
「みなさん、ありがとう。さようなら」
人生の幕が下り始めたまさにその時だった。娘の後ろにたたずみ、不安に染まった幼い孫の紀花が目に飛び込んできた。母親のスカートを握りしめ、今にも泣き出しそうな顔をしている。娘夫婦の間に生まれた紀花は、敏子にとってたった一人の孫だ。それはそれは愛情を注ぎ、宝のような存在だ。
(のんちゃん…… 紀花はまだ4歳。純粋で心優しい私の大切な孫。どんな女性に成長するのか、紀花が生まれた時からずっと楽しみだった。出来ることならもう少し、もう少しだけでいいから紀花の成長を見ていたかった… あぁ…… お願い、もう少しだけ……)
悔いなく別れを告げたはずの敏子だったが、紀花を目にした途端、急に諦めがたい衝動が激しく込み上げた。しかし、その強い想いとは裏腹に、下り始めた幕はそのままゆっくりと閉じ、敏子の人生という舞台が終演したのだった。
ふと気が付くと、暗闇の中が心地よいほど暖かくなり、言葉に言い表せないほどの安心感に包まれた。いつまでもここにいたいと思えるほどの居心地の良さを、敏子は感じていた。
第2話につづく
第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)