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犬だった君と人間だった私の物語【第15話】紀花


 梅雨も終わりに差し掛かったある雨の日の夕方。爽やかな水色のワンピースに身を包んだ若い女性が駅前に立っていた。紀花だ。毎週水曜日は大学の授業が終わると彼とデートをする約束の日である。しかし今日は、金曜日だ。紀花は彼のバイト上がりを待ち伏せして驚かせようと、こっそりと彼のバイトが終わる時間に合わせてやってきたのだ。

 細い腕につけた腕時計を見ながらソワソワと待っていると、飲食店が入る雑居ビルから彼が現れた。紀花はパッと明るい表情になると慌てて傘を差し、彼の元に駆け寄ろうとしたその時。彼はなんと、傘を刺す手間も惜しんで雨の中を一直線に違う女性の元へと走っていったのだ。
 紀花は一瞬、何が起こったのか分からなかった。すると、彼は慣れた手つきで女性の肩を抱き、親しげに笑顔で顔を寄せ合って話している。見てはいけないものを見たと悟った紀花は、思わず傘で自分の顔を隠した。ドクンドクンと心臓の音が全身に響いている。勇気を出してゆっくりと傘をずらし、もう一度彼の方を見ると、彼は自分の大きな傘を開き、女性と二人で仲睦まじく雑踏の中に消えていったのだった。

 紀花はしばらくその場に立ち尽くした。傘を鳴らす雨音がやけに大きく聞こえ始め、握りしめた傘やバッグが急に重たく感じ、持っているのがやっとだった。まるで、振り続ける雨のカーテンに閉じ込められたように、紀花はしばらくその場を動けなかった。行き交う人の傘がぶつかり、傘を落としそうになって紀花はやっと我に帰った。
「帰ろう…」
 紀花はそう小さく呟くと、静かに後ろを振り帰り、帰改札に向かって傘を畳みながら歩いて行った。驚きのあまり、涙は出なかったが、畳んだ傘から滴る雨の雫がまるで涙のようにポタポタと駅の構内を濡らし続けた。

 紀花は、人の波に流されるように電車に乗った。金曜日のこの時間の電車は、学生や仕事を終えた社会人が多く乗っていた。自然の目に映る人たちは皆、週末を迎える開放感からか活気付いているように見えた。さっきまで、自分もあんなふうにワクワクしていたのに、今の気持ちとの落差に思わず下を向いた。雨に濡れた水色のワンピースの裾が、紀花の悲しみに追い討ちをかけた。電車を降りてからは記憶がなく、ぼぅっとしたまま無意識でアパートの部屋に戻っていた。シャワーを浴び、着替えても、気持ちだけはずぶ濡れだった。

 ふと気がつくと、部屋のテーブルに置いていた携帯電話に着信の知らせが入っているのに気がついた。紀花は慌てて駆け寄り手に取った。着信の相手は、母親の博美だった。
「はぁ…」
 一気に脱力した紀花は、携帯電話をテーブルの上に戻した。平静を装えるか不安だったが、大きく深呼吸をすると、博美へ折り返しの電話をかけた。

「もしもし、紀花。電話ありがとうね」
 相変わらず明るい博美の高い声が聞こえる。
「お盆は帰ってこれるんでしょ?

 次の水曜日、梅雨明けした空は今までの雨が嘘のようにスカッと晴れ渡っていた。夕刻になってもまだ明るく、駅前のレストランのテラスでは、仕事帰りに夕涼みをしながら美味しそうに冷たいビールを飲む姿も多く見られた。そんな風景をぼんやりと眺めながら、紀花はいつもと同じように彼と会うために駅前に立っていた。

 紀花は、金曜日に駅前にいたことを彼に黙っていた。彼を信じたかったので友達にも言わず、重たい鉛のような気持ちを一人で抱えていた。浮かない表情で待っていると彼が迎えにやってきた。そして、あの時のような慣れた手つきで紀花の肩を抱いた。紀花の体は一瞬硬直したが、それを悟られないよう何事も無かったかのように笑顔をつくり、いつもと同様に振る舞った。
 
 ちょうどその時だった。散歩中の松田とノンが商店街の角を曲がり、駅前通りに差し掛かった。仔犬のノンからは、雑踏を歩く人間の顔はよく見えないが、ノンの鼻は確実に紀花の香りを捉えた。
〈間違いない、紀花が近くにいる〉
 ノンはものすごい勢いで人込みの中を走り、紀花を探し始めた。いつもおっとりしているノンが急にスピードをあげたので、カメラを片手にしていた松田の手からリードが滑り落ちた。雑踏に踏まれそうになりながら駆けていくノンに、松田は慌てて叫んだ。
「ノン! 待って! 行ったらダメだ!」
 その時だった。雑踏の中で振り向いたのはノンではなく紀花だった。紀花は驚いた顔でじっと松田の顔を見つめた。松田はまるで、時が止まり、この世の中で動いているのは紀花と自分、そしてノンだけのように感じた。香りのする方に一直線に走るノン。
〈いた! のんちゃん!〉
 ノンは紀花を見つけると、急いで足元へ駆け寄った。
「私よ、おばあちゃんよ!」
 気持ちを抑えられずノンは必死に紀花に話しかけている。紀花はその場にしゃがみ、それが自分の亡くなった祖母だとは知らずに、仔犬のビーグル犬ノンを優しく見つめた。そして地面に落ちたリードを手に取ると、駆け寄った松田の顔を見上げた。
「す、すみません。ありがとうございます」
 慌てて謝る松田は、とても不思議な感覚に襲われていた。紀花からリードを受け取った時、松田は何か言わなくてはいけない衝動に駆られた。しかし、何を言いたいのか自分で分からないのだ。
「あの、あ、えっと」
 すると紀花の恋人が言った。
「行こう」
 紀花の腕をつかんで、ぐっと引っ張った。紀花は松田とノンから引き離されたが、ノンが紀花の足元に立ちはだかった。
「のんちゃん、のんちゃん!」
 ノンは必死の思いで吠えて紀花の行く手を塞いだ。しかし紀花の恋人は、そのまま紀花の腕を引いて人込みの中に消えていった。
 気がつくと、あたりはまた何事も無かったように都会の喧騒が響き、いつもと同じ時間が流れだしていた。松田はノンを抱き上げ、顔を見つめた。
「なんだろう、この感覚。ねえ、ノンはあの女の人を知っているの? 僕は何か伝えなくてはいけないことがあるような気がしてならないんだ」
 ノンは大きくキャンと吠えた。
「でも、もう行っちゃったね」
 そう言いながら松田は、今度はリードが抜け落ちないように自分の手にしっかりとリードを巻きつけた。

第16話につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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