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犬だった君と人間だった私の物語【第13話】名前


 週末から、敏子は松田の家で暮らすことになった。ペットショップから15分ほど歩いたところにある古い賃貸アパートを、若者向けにリノベーションしたペット可の物件だった。家に着く頃には、松田の記憶は完全に消えていたが、ビーグル犬の敏子を買ったことは後悔していなかった。むしろ、一人暮らしの松田は家族が増えた感覚を持っていた。
「君に名前をつけよう。女の子だから……」
 すると松田の頭の中にふと思い浮かぶ名前があった。
「ノ……リカ……?」
 松田はこの名前をどこかで何度も聞いたような気がしたが、なぜこの名前が浮かんだのか全くわからなかった。敏子はびっくりして松田の顔を見上げた。そして
「そうよ! 紀花を覚えているのね!」
 そうキャンキャンと嬉しそうに吠えて、くるくるとその場を回りだした。
「いや、でもなんか、犬に人間の彼女みたいな名前を付けてもね、犬らしさがないよね」
 そう言うと、また首をひねり考え出した。
「ビーグル犬だから、ビー……ビートは?」
 それを聞いた敏子は、がっくりと肩を落とし、ソファと壁の隙間に顔を突っ込んだ。
「あれ、だめか。やめよう。お気に召さなかったみたいだね」
 敏子の姿を見て笑うと、すぐにまた不思議そうな顔で首を傾げた。
「なんでだろう、ノリカ……っていう名前が頭から離れないんだ」
 敏子は少しでも松田の記憶をつなぎ留めたいと祈った。
「ノリカ……ノリ……ノリ……ノン……! ノンはどうかな?」
 敏子は松田の足に抱きつき尻尾を振った。
「ほら、喜んでるみたいだし。ノンで決定だ!」
 この日から、松田は敏子を新しい名前「ノン」と呼んだ。
 
 ノンは、松田に飼われたことに、自分の望みをつないでいた。松田は自分とのやり取りの記憶は消えているが、松田のその誠実な心の中に、あの時の約束のかけらが残っていると感じたからだ。こうして孫の紀花の名前を憶えているのだから、間違いない。

第14話につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

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