犬だった君と人間だった私の物語【第6話】疑惑
ある日、敏子がいつもの様に窓ガラスの外を眺めていると、長身で痩せた男性が癖のある髪をかき上げながらキョロキョロと辺りを見渡しているのが見えた。
(あの時、紀花を迎えに来た男性だ!)
敏子はハッと立ち上がり、紀花を前屈みになって必死に探した。これから来るに違いない。
(いよいよ、また紀花に会える!)
そう思うと、敏子は自分の心臓がドキドキと脈打つのを感じた。大人になった紀花の姿をもう一度目に焼き付けようと胸が高鳴ったのだ。興奮した敏子は、ケージの窓ガラスに何度も顔をぶつけながら紀花の姿を探した。
その時、予想していないことが起こった。男性の元に現れたのは、紀花とは全く容姿が異なる派手な服装をした今時の女性だった。男性はその女性に親しそうに近づき、肩に手をまわした。
紀花が現れるとばかり思っていた敏子は、突然のこの状況を理解できなかった。大きく目を見開き、二人の様子を凝視した。そして、仲良く雑踏に消えていく姿を見て、間違いなくこの二人は恋人同士だと確信した。
敏子の期待と興奮は、思わぬ形で落胆に変わった。ケージの中でガクッと腰を下ろすと、力を失なった視線は、重力に耐えられなくなったかのように床へと落ちていった。
(紀花は、あの男性とすでに別れていたのね…。見かけない間に一体何があったのかしら。紀花は元気なのかしら……。)
敏子は紀花のことが心配で仕方がなかった。
ーさらに数日後
敏子は今日も窓ガラス越しに紀花の姿を探し続けていた。夕方になり、帰路を急ぐ人たちで駅が混み始めた頃、行き交う人混みの奥に、またあの男性が立っている姿が見えた。
(会いたいのは紀花なのに……)
紀花ではない新しい恋人と待ち合わせているであろうこの男性に、もう興味は持てなかった。敏子はペタリと床に伏せたまま、残念な気持ちで男性の方をぼーっと眺めていた。
すると、男性の元に現れたのは昨日とは違う、真面目そうな会社員らしき女性だった。敏子は思わず首を傾げた。
二人は恋人の様にスキンシップを交わし、楽しそうに雑踏の中に消えていった。その様子を見て、敏子は眉をひそめずにはいられなかった。
(こんな短期間で女性をコロコロ代えるなんて…。賢い紀花はきっと、あの男の素性に気が付いて去っていったのね。別れて本当によかった)
敏子は心底そう思った。
(紀花にとって恋人と別れたことは辛い出来事だったかもしれない。でも、この経験が必ず後の幸せにつながるはずよ)
敏子は目を閉じて、心の中で紀花にエールを送った。
ー翌週
夕方のこの時間は客の出入りも少なく、ゆったりとした時間が流れていた。窓ガラス越しに見える賑やかな駅前の風景がまるで別世界のように見える。店内にかかる音楽を聴きながらリラックスした敏子は、ぐーっと伸びをして横になり何気なく駅前に視線をやった。すると、そこにまたあの男の姿が見えた。
敏子は重いため息をつき、視界をそらそうとしたその時だった。駆け寄ってきた女性が目に飛び込んできた。
なんと紀花ではないか。
「なんて事なの! のんちゃん! のんちゃん!」
敏子は必死に叫んだ。男は紀花の肩を馴れ馴れしく抱いた。すると偶然にも、紀花がペットショップを指さし二人はこっちに向かって歩いてきたのだ。
近づいてきた男に向かって、敏子はここぞとばかりに、ほほを吊り上げ牙をむき出し、怒りの表情を見せ激しく吠えたてた。そして紀花に目をやり必死に訴えた。
「のんちゃん、この人はやめなさい!」
しかし紀花には、吠えていることしか伝わらない。
「こわ。行こうぜ」
紀花はこの仔犬がなぜこれほど吠えているか気になったが、男に促され、その場を立ち去ろうとした。
「待って! のんちゃん! その人はあなたを幸せになんてしないわ!」
必死に吠え続ける敏子を背に、二人は向かい側のコンビニに入って行った。敏子の叫びは届かなかった……
第7話につづく
第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)