見出し画像

犬だった君と人間だった私の物語【第18話】河川敷


 翌週の水曜日。交差点の角を曲がり駅前通りにさしかかった松田は足を止めた。遠くに見える改札口の前には、携帯電話を何度も確認しながら夏の日差しを避けるように立っている紀花の姿が見えた。恋人が迎えに来るのを待っているのだ。
 松田はその場で大きく一呼吸すると、ノンを連れて紀花の元に向かった。下を向いて携帯電話を確認している紀花の目の前に立つと、紀花は慌てて顔を上げた。やっと恋人が来たと思ったに違いない。松田はそんな紀花に神妙な面持ちで話し掛けた。
「彼を待っているんですか」
 紀花は少し沈黙した後、松田の顔を見て言った。
「……いつも会えない日は事前に連絡が来るんですけど。昨日から何の連絡も取れなくて。だから一応来てみたんですが……」
 すると松田は言いにくそうに話し始めた。
「僕が言うことじゃないのは分かっているんですが……。彼は今週、他の女性と旅行に行くと話していました。僕、盗み聞きしてしまいました」
 松田の口からそんな話を聞くとは思ってもいなかった紀花は驚くと、心を沈めるかのようにゆっくりと目を閉じ、そのまま下を向いて答えた。
「やっぱり、そうですよね……。分かっていたんです、本当は」
 松田は正義のために告げたつもりだったが、自分の言葉が紀花を深く傷つけたことに責任を感じた。しかし、励ます言葉が見つからず、二人の間に沈黙が流れた。ノンは紀花の顔を下から見上げた。紀花のその悲しい顔を見て、ノンの胸が押しつぶされそうになった。
 紀花は松田を困らせてはいけないと思い、慌てて顔をあげた。
「あの、なんとなく分かっていたので、大丈夫です」
 無理して笑顔をつくり、気丈に振る舞おうとする紀花の姿が痛々しかった。
「のんちゃん、これでいいのよ。あなたにはもっといい人が必ず現れるから」
 ノンは紀花をそう励ましたが、紀花にも松田にも、ノンの言葉は伝わらない。

 痺れを切らしたノンは、紀花の足元をくるくると走り回り、こっちについて来いと言わんばかりに吠えた。リードが脚に絡まりそうになった紀花は、サンダルを履いた足をパタつかせた。そして突然ノンが走り出し、リードを持つ松田の手がぐいっと引っ張られた。松田はノンの方に体が傾くと、驚いて転びそうになりながら紀花の顔を見た。そして今にも走り出すその瞬間、松田は紀花にさっと手を伸ばした。思わず紀花はその手をつかんだ。そして二人はノンにリードされ、一緒に夏空の下を走り出した。
 駅前の人混みをぬい、ガード下をくぐり、商店街の路地裏を抜け、その先にある土手を勢いよく駆け上がった。二人はそこで思わず足をとめた。

 そこには大きな川と河川敷が広がっており、オレンジ色の夕日があたりを幻想的なグラデーションに染めながら、ゆっくりと遠くのビルの隙間に沈もうとしているのが見えた。走って来た二人は大きく肩で息をしながら、その景色に目を奪われた。やさしく吹く夕方の風が心地よく、静かに流れる川面がキラキラと光っていた。その川を跨ぐ陸橋の上を、電車が大きな音をたてて近づいて来た。
 その時、松田が紀花に話しかけた。しかし電車の音が大きくて、紀花にはよく聞き取れなかった。
「え?」
 大きな声で聞き返した紀花に、松田はさらに大きな声でもう一度言った。
「やめちゃいなよ! あんなやつ!」
 すると紀花は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに生気がよみがえった。すると吹っ切れたように大きく頷いた。
「やめてやるーーーーー!!!!」
 紀花が川に向かって大きな声で叫んだ時、ちょうど電車が二人の横を過ぎ去り、紀花の大きな声だけが河川敷に響き渡った。紀花はびっくりした顔で松田の方を見ると、松田は吹き出すように笑い出した。紀花もつられて声を出して笑い、二人はゆっくりとその場に腰を下ろした。
 松田はじっと景色を見つめると、首にかけていたカメラのレンズキャップを外し、さっきよりも少し沈んだ夕陽にカメラを向けた。そして丁寧に1回シャッターをきると、プレビュー画面に映った写真を確認した。
「うん、いい」
 そう言って、紀花にもそれを見せた。カメラで切りとられたその景色は、まるで魔法で時が止まったかのように神秘的だった。
「わぁ……すごい」
 すり減っていた紀花の心に、染み入るような感動があった。そして、ますます目の前のこの景色を好きになり、今ここにいることが幸せに感じた。
「松田さんはいつも写真を撮っているんですか?」
 紀花の質問に、松田はにっこり微笑むと、そのまま自分のカメラを手渡し、矢印ボタンを押すように伝えた。プレビュー画面に次々と映し出される写真を見ながら、紀花は言った。
「……松田さんが撮る写真、見ているとなぜかすごくほっとします。なんでだろう」
 すると松田は嬉しそうに言った。
「僕の写真のテーマは『心を尽くす』なんです」
 松田は続けた。
「僕の両親は共働きで忙しかったから、よく隣町の親戚の家に預けられていてね。じいちゃんは定年退職をした後もアルバイトをしていたから、ある日、ばあちゃんと手を繋いで、じいちゃんが働いている姿を見に行ったことがあるんです」
「おじいさん、何のアルバイトをしていたんですか?」
 紀花が聞くと、松田は答えた。
「駐車場の誘導員」
 松田はにっこり笑うと、向こう岸の景色を眺めながら話を続けた。
「すごく暑い日だったんですけどね、どんな人にも丁寧に、親切に、まるで自分の大切な人に接するように笑顔で声をかけたり、頭を下げたりして。その時のじいちゃんが、本当にかっこよく見えたんですよね」
 松田と紀花の間に座ってその話を聞いていたノンは、自分が入院していた時に、中庭の奥にいた誘導員の姿に励まされていたことを懐かしく思い出していた。
「なんであんなにかっこよかったのか、この歳になってやっと気がついたんです。それはじいちゃんが誰に対しても『心を尽くしていた』からだって。毎日、忙しくて流されるように生きていると、人が心を尽くすシーンに出会っても、気づかずに通り過ぎてしまいがちなんですけど、僕はそれを見過ごしたくないって思ったんです。だから、それを写真に残しているんです。あの時のじいちゃんの姿も撮ってあげたかったな」
 松田の話を聞いて、紀花は再びカメラのプレビュー画面に目をやった。そこには、八百屋のおじさんが、お客のおばさんに笑顔で野菜の入った紙袋を手渡す姿が写っていた。『奥さん、家族もみんな元気? 暑いから夏バテしないように、大きくて美味しいの入れといたからね』っと、そんな声が聞こえてくるようだ。もしかしたら、おじさんは甘いトマトを1つオマケしたかもしれないと思えるような、そんな生き生きとした表情の温かい写真だった。その次の写真も、そしてその次も、次々と映し出される写真には、松田が言うさりげない日常の中の温かい『心』がしっかりと写真に収められていた。
「……素敵ですね」
 紀花は思った。悩み事に気を取られていた自分は、そんな日常のシーンをどれほど見逃してきただろうと。その気付きは、紀花が本来居るべきだった場所に、再び戻ってこれたような感覚をもたらした。そして、思い出すように話し出した。
「そういえば……私のおばあちゃんも、同じことを言ってました」
 ノンはびっくりして紀花の顔を見上げた。
「おばあちゃんが入院していた時、病室の窓から見える誘導員のおじさんの姿を見て、その一生懸命な姿に励まされるって」
 松田は紀花の話を聞くと、少し驚いた表情を浮かべた。
「それ、僕のじいちゃんだったりして」
 そう言って、まさかという表情を浮かべて笑った。
「本当にそうかもしれませんよ」 
 紀花もいたずらっぽく笑った。ノンは、あんなに小さかった紀花があの時のことを覚えていたことが嬉しかった。敏子の大切な思い出を、紀花も同じように大切にしていてくれたのだ。

 日が落ちてあたりが暗くなり虫の音が聞こえてくるまで、松田と紀花はたわいもない話をした。家族の話や、学校の話、将来の夢や目標。夜風に吹かれながら話を聞いていたノンは、松田という人間をますます好きになった。あの日、ペットショップのショーウィンドウから孫の名前を必死に叫んでいた自分に心配そうに声を掛けてきた松田は、まさに心を尽くそうとしてくれていたのだと思った。
 そして、ノンが何よりも嬉しかったのは、自分が共に過ごすことのできなかった紀花の人生の歩みを知れた事だった。
 
 敏子が他界した後、紀花は父親の仕事の都合で何度か転校を経験していた。一人っ子で人見知りの紀花はその度にひどく緊張したそうだが、先生やクラスメイトに恵まれて楽しくすごしていた。高校ではチアリーディング部に所属し、怪我に悩まされながらも東北大会まで進んでいた。幼い頃から歌や踊りが好きだった紀花。ノンには、キラキラとした笑顔でチアリーディングをする紀花の姿が目に見えるようだった。紀花は海外の大会映像を繰り返し見るうちに、語学に興味を持つようになり、今は親元を離れ下宿生活をしながら大学の英文科に通っていた。紀花が東京へ引っ越す日、母親の博美は目と鼻を真っ赤にして泣く泣く見送ったそうで、今では家族の笑い話になっているそうだ。
〈博美ったら。本当は泣き虫なのよね〉
 ノンはクスっと笑った。そしてしみじみと思った。紀花は家族や周りの人たちの愛に恵まれ、困難な時もその波を乗り越えながら、人生を一歩ずつ歩み、こんなにも素敵な女性になっていた。そして今も、自分らしい道を模索しようとしている。あれほど知りたかった紀花の成長を、まさかこうして本人の口から聞くことができるとは。ノンは紀花の膝の上でとっぷりと身をまかせ、言い表せないほどの幸福感に包まれていた。
〈松田くん、紀花、ありがとう〉
 ノンは心の中でそう呟いた。
 
 すると突然、不思議な事が起こり始めた。ノンが人間だった時の記憶が水蒸気のようにゆっくり宙にと舞い上がり始めたのだ。そして、流れるようにふわぁと夜空に昇ると、遠い星の彼方へ静かに消えていった。

 ノンに敏子の記憶があったのは、この日が最後だった。

第19話(最終話)につづく

第1話 別れ
第2話 新しい姿
第3話 中庭
第4話 再会
第5話 ペットショップ
第6話 疑惑
第7話 奇跡
第8話 理由
第9話 可能性
第10話 動物病院
第11話 青年
第12話 記憶
第13話 名前
第14話 松田との暮らし
第15話 紀花
第16話 伝えたいこと
第17話 目撃
第18話 河川敷
第19話 数年後(最終話)

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

いいなと思ったら応援しよう!