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「感動」の正体は、「凝縮された時間」である
ほんとかどうか知らんけど、ピカソの有名な話。
ある日、ピカソがマーケットを歩いていると、手に一枚の紙を持った見知らぬ女性がこう話しかけてきたそうです。
「ピカソさん、私あなたの大ファンなんです。この紙に一つ絵を描いてくれませんか?」
ピカソは彼女に微笑み、たった30秒ほどで小さいながらも美しい絵を描きました。そして、彼女へと手渡しこう続けます。
「この絵の価格は、100万ドルです」
女性は驚きました。
「ピカソさん、だってこの絵を描くのにたったの『30秒』しかかかっていないのですよ?」
ピカソは笑います。
「30年と30秒ですよ」
この話をヒントにいろいろ考えていたら、“我々が「感動」するときというのはつまり、凝縮された「時間」を感じるときなのではないか”という考えに至った。
そう考えるとたとえば自分の場合、以下のようなことがある。
・街で高齢者とすれ違うときに「ああ、この人は俺なんかが生まれるずっと前から生きてるんだよな…」と思ったり。
・高いところから、びっしり並んだビルを眺めて「ああ、このひとつひとつの建物にミリ単位の設計図があって、何年もかけて建築したんだろうな」と思ったり。
・CMを監督する仕事をしていて「こんだけ何ヶ月もみんなで考えて、完成作品はたった15秒なんだよな…」と思ったり。
・めちゃくちゃすごいダンスパフォーマンスを見て「ああ、この人はどれだけたくさん練習したんだろう…」と思ったり。
世の中に目を向けてみると、「感動」するとき
ピカソの話に近いことがたくさんある。
〈スポーツ〉
我々が感動するそのシュートは、その4回転は、そのホームランは、そのトライは、そのパンチは、「一瞬」。でもその「一瞬」を生むために、選手は途方もない「時間」を練習にささげている。
〈エンタメ/文化〉
我々が感動するその歌は、映画は、その演奏は、そのダンスは、そのフリースタイルラップのパンチラインは、その1枚は、その1冊は、アーティストたちが途方もない「時間」をかけて作り出したもの。
〈経済〉
我々が感動するその商品は、その一口は、そのデザインは。使用したり、食べたり、見て理解したりというのは「一瞬」のことである。しかし開発者が、料理人が、生産者が途方も無い「時間」をかけて世に、そして食卓に運んだものだ。
(もちろん、「時間」を積み重ねれば必ず「感動」が生まれる、という逆の式は成り立たない。特にエンタメやスポーツではめちゃくちゃ時間をかけたとしても、それがトンチンカンな努力…「濁った時間」であれば、純度の高い「感動」や成果を生むことはできない)
目撃した実時間の「一瞬」に対し、それに到達するまでの「積み重ねられた果てしない時間」を感じたとき、人は「感動」するのではないか。
たとえば僕の専門「映画」はたった数十分〜2時間に、一人の人間の人生をまるごと入れたりする。
ストーリー的にも実時間で体験しようもない途方もない「時間」が、制作的にも何ヶ月、何年もの製作期間という「時間」が、完成品のたった2時間に凝縮されている。
あとわかりやすいのは、料理だ。
作物を育てたり、動物が誕生し育ったりすることからレシピの考案、トライ&エラー、そして実際の調理まで含めると、食卓に並んだり口にするまではとんでもない「時間」が積み重ねられている。
食べる「一瞬」に、積み重ねられた「時間」が凝縮されている。
おいしい料理を食べたときの「感動」は、その味だけではなく人間はなんとなく「そこに蓄積され凝縮された時間」を感じて起きているのではないか。
と思うのだ。
なぜか?
それはスポーツでも、料理でも、映画でも、ライブでも、「自分の外にある、積み重ねられた時間」を食らうから、とでも言おうか。
すごいシュートを見たとき、
すごい歌を聞いたとき、
すごい本を読んだとき、
感動する。
そのとき裏には「自分にはこれはできない」という事実が隠れている。
「自分の外にある時間」であり、「自分が積み重ねてこなかった時間」であり、「自分が通り過ぎてきた時間」だ。
時間は手ですくうことも、運搬や貸し借りすることもできない。
自分にまとわりついている一定の時間がすべてだ。
ふだんはある程度”薄い”「いま現在」のあいだを漂うだけだ。
特に何もしなければ、特に何かが積み重ねられるわけではい「いま現在」を生きている。
そうだとして、「感動」するときはどういうときか。
改めて考える。すべて「積み重ねられた時間が、一瞬に現れたとき」だと言えるんじゃないか。
先に述べたアートやエンタメ、スポーツだけではない。
日常でのことでもたぶんそうだ。
・ずっと会えていなかった人と再会したとき。
ずっと会えていなかったという「積み重ねられた時間」が、再会という「一瞬」に凝縮されている。
・結婚式で手紙読むやつ。
ずっと育ててくれた親との「時間」、出会って付き合ってという2人の「時間」が、手紙を読む「一瞬」に凝縮されている。
・仕事でなにか成果を獲得したとき。
ずっと取り組んでいた「時間」、その仕事にたどり着くまでの「時間」が、成果を獲得したという「一瞬」に凝縮されている。
・赤ちゃんの誕生。
これはたぶん、お腹の中で赤ちゃんが過ごした9ヶ月という「時間」だけではない。生物が誕生して進化してきた何億年もの「時間」を本能的に感じて、感動するんだと思う。
人は一定の密度の「いま現在」を漂うことしかできない。
そのなかでときどき、「いま現在」の何百倍もの「積み重ねられた時間」が凝縮され、とんでもない密度の「一瞬」を食らうことがある。
そういうとき、人は心が震え、感動するんだと思う。
というわけで、「感動」の正体は、「凝縮された時間」である、と思うに至った。
これからもたくさんの感動を食らって生きていきたいし、そしてたくさんの感動を食らわせることができるよう、「いま現在」を積み重ねていこうと思う。
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![洞内 広樹 (映像ディレクター/映画監督)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/4520587/profile_32bdcd562a0436358b41238307ae337c.jpg?width=600&crop=1:1,smart)