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破滅へ一直線

『なんで親離婚させて、大学辞めて、未遂して、医療保護入院して、グルホに来て、生保になって、障害年金になって、バイトも続かなくて、両親と縁が切れて、自分の苗字変えようとしてて、こんな破滅に一直線のくせに生きてんの?』

異常な程に人生に悲観しすぎているだけの私が悪いのかもしれない。

でも、この状況下で、楽観的に?前向きに?
そんなこと無理に決まっているだろう。


2024/8/22~9/20の約1ヶ月間、私は精神科閉鎖病棟で任意入院をしていた。
入院のきっかけになった心理面談で、具体性の持った自殺企図・計画を話してしまったので、急遽主治医の診察を受け、私の同意の上、任意入院をした。

入院中も希死念慮、自殺企図は中々止まらなかった。

ただ休める穏やかな環境ならば良かったのだけれど、入院中に母親と喧嘩して絶縁に近い状態になったり、バイトを辞める決断をすることになったり、苗字を変えるということを決心したり、色々と考えなければならない事が多かった。


入院中、看護師さんや心理士さんからの
『今の死にたい気持ちを数字で表すと、0-10で何になる?』
という問いに、私は
『13』
と答えていた。

実行予定の場所はもちろん、服装、髪型、当日の動き、最後に聴く曲、遺書の書き方、葬式の希望、そして死に方、とりわけ最期の瞬間の体勢まで決めていた。
幸いその気持ちは少し軽くなったが、治ったと言っていいのか分からないくらいの調子で、生活保護の関係で、1ヶ月で退院した。

病棟の看護師さんには
『死ぬくらいだったら、その前に1度休みに戻っておいで。こんなこと言うのもおかしいけど、また会えるといいなと思ってる』
と言われた。


『再入院しろ』
という意味ではなく、

『生きていて欲しい』
という意味であると私は受けとった。

それは都合がいいだけだろうか。


退院後、更に嫌な情報が入った。
再婚したはずの父親が、再度離婚したらしい。
母親や母方の家族(祖母など)は
『あんなやつ、また捨てられたんだよ』
と、嘲笑していた。

私も一緒に嘲笑えれば良かったのだけど、何故か涙が溢れて止まらなかった。
怒りにも近い感情、だけど怒りだけではない、何か複雑な感情。
自分でもどんな感情で泣いてるのかが分からなくて、とても困惑した。

その同時期に、祖母から自分の幼少期のアルバムを譲り受けた。そのアルバムの中には、私と父親が笑顔で写っている写真も入っていた。


何故あの時期は笑っていられたのだろう。
あの写真の時期も、私は家では相当の苦痛を感じていたはずだ。
その経験は複雑性PTSDとなって、今証明されている。

あの時期も家庭では耐え難い苦痛があったはずなのに、写真には旅行先で家族と笑顔で写っている幼き頃の私がいた。

家族写真を全て破り捨てたくなった。
過去など全て黒く塗りつぶしてやりたくなった。

過去などいらない、家族などいらない。
全部全部消えればいい。

私の存在ごと消えてしまえば―

でもそんな簡単には消えることは出来ない。
結局私は、生きる以外の道は無いのだ。

悲しいね、早く命日を決めてしまいたいよ。

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