頭の中のがらくた
書けるようになりたければ、とにかく書け。
描けるようになりたければ、とにかく描け。
古今東西老若男女プロアマ問わず、クリエイターになりたければ、とにかく手を動かせ!
何を読んでも誰に聞いてもこうである。そして、これは玉石混淆数多ある創作ノウハウの中で唯一にして頂点の真実だと言っても過言ではない。
私も頭では理解しているし、最近お絵描きを始めて、改めて意味を理解したところでもある。
そして書ける描ける人たちが口を揃えて言うのは「書けば描けばいいじゃん」、これである。いや全くその通りで、いったい何が問題なのか。書け描けないなら、向いてない。やめた方がいい。現実はいつも手厳しい。
ただ、色々と本を読んでみると(この仕草がもうダメだ)、このトートロジーめいた命題に苦しんでいる人は少なくないらしい。参考になったのは、その手の人々にとってバイブルとされる『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(ジュリア・キャメロン著)や『魂の文章術』(ナタリー・ゴールドバーグ著)だ。彼女らの説明を強引に約せば、「人は元来創造的な生き物である。創造することができない(と思っている)人は、心の中の創造性を現実で形にするための道に、障害物を置いてしまっているだけだ。この障害物を丁寧に取り除いていけば、貴方の創造性は自由に、心からまっすぐに、形になる」、このような具合である。
障害物は様々な形を取るが、わかりやすいのは検閲官だ。文章でも絵でも、それを始めること自体に詰まる人の背後や内面には意地悪な検閲官がいて、四六時中文句を言ってくる。その文は美しくない、その単語は相応しくない、その線は醜い、その色では面白くない、等々。この検閲官はかつて私たちの創作を邪魔して馬鹿にして踏みにじった誰かの残影であり、その反響が堆積した自分自身でもある。だから恐ろしいことに、検閲官の声は誰かのものではなく、自分の声なのだ。この検閲官を助手席から突き落として(あるいは運転席から)、やっつけてしまわなければならない。検閲官がいないか、それを従属させることに成功した人々にとっては何を躊躇しているのかわからないのは当然である。
これらの説明は納得感があるし、誰にでも創造性があるということを前提にするから、(それが慰めであったとしても)希望を持つこともできる。
この手の著作には共通して、スピリチュアルな説明が含まれているのは興味深い。曰く、創造力の獲得は創造性を司る神との繋がりによるものだ、など。神からの授かり物という意味ではアイデアが「降りてくる」という表現は象徴的であるし、プラトンのイデア論のようにあるべき形を取り出してくるという発想も、これに近い。創作という行為は過去の作品や出来事の断片を組み合わせることでありつつも、特定の形を取る(作品になる)ためには、言語化できないプロセスを経る必要がある。人類のこれまでの営みや各個人に格納された知識は不定形で、それ自体を取り出すことが不可能であるのに、その胎から創作物は産み落とされる。神を信じるかどうかは別として、創作という行為が文字通り超自然的であることは否定しようがなく、いわゆるスピリチュアルな言論と近接するのは"自然"なことなのだろう。
ところで、先に挙げた本は半年前に読み、クリエイターの方々からのアドバイスは1年以上前から継続的に頂いていた。にも関わらず私は具体的な動き(特に発表すること)ができないでいる。呆れられて、見放されても仕方ない。
そう、白状すれば、上記まで書いたものも以下も全て言い訳なのだ。この言い訳も葛藤も文章にしてしまって、抜け出してやろうというのが、これを書いている魂胆なのである。あくまで自己弁護に徹するならば、こういった気持ちを吐露して誰かが読める状態にすることさえ、多大な勇気が必要であった。ただ、毎日ごちゃごちゃと書いたり書かなかったりして、どうしようもなくなってきた今日この頃にやっと気付いたのだ。もうこれ以上悪くなりようがない、と。書いたものが無視されても唾棄されても、存在が認知されないよりは幾分か救いがある。人は無視する時にでさえ、対象を認知しているのだから。
私の検閲官は忌々しいことに私と違って異様にタフだ。上記の本にはいずれも「毎日ただひたすら書く時間をつくる」ことが奨励されていて、私も紙ノート数冊分を解読不能な文字で埋めた。が、検閲官は倒れなかった。だから次のステップに進まなければならない、このノートを誰かに見せるのだ。
私にとっての障害物は検閲官もそうだが、頭の中に溜まりに溜まった"がらくた"たちの存在が大きい。何かしらの考え意見感想議論理論が滅茶苦茶に絡まり合って、創作への道は奇怪なオブジェによって堰き止められている。何かを書き出そうとすると、別の何かが入り込んできて、邪魔をしてくる。これらを片付けて道をきれいにすれば、恐らく、運が良ければ、私も創造性を思う存分発揮できるようになる、かもしれない。千と千尋の神隠しの、オクサレ様から皆でゴミを引っ張り出すシーンのようにいけば、さぞかし爽快であるに違いない。同時に、その"がらくた"も多少手を入れてやれば、誰かの暇潰しにはなるかもしれない、と淡い期待を抱いてもいる。
一方で、この"がらくた"自体が自分自身だったらという不安はある。つまり私は私が思っている以上に引き出しの無い人間で、放り出してるゴミそのものが私だったという可能性だ。どんどん書けることがなくなって、私自身が削れていって、何も残らないかもしれない。私の創造性の泉はそもそもが枯れ井戸で、ゴミが入っている分だけ豊かにみえていた、それだけかもしれない。だが、今はこれ以上考えない。最悪のシナリオは後回しにしよう。
幸い、今のインターネットは役に立たない情報で溢れていて、私がそこにゴミを投げ入れたところで、誰も気にすることはない。だから私は喜びとともに文字をここに吐き出すことにしたい。私の尊敬するクリエイターは、とにかく最低1日1万字書きなさいと口酸っぱく仰った。だから小説でもなんでも、原稿が進まなかった分は、ここに何かを書き残すことにしたい。ここに書いている日は書けなかった日。書いてない日は原稿が書けている日。あるいは、何も書いていない日。
そういうわけで、この文章が読まれるのかどうかもわからないが、以後、私の投稿は全て"がらくた"だ。道端に落ちている粗大ゴミをついつい見てしまうくらいの気持ちで、読んでもらえれば幸いである。そして願わくば、同じような問題を抱えた人が、私の"がらくた"を見て「自分の方がうまく書ける」と、創造性を発揮するきっかけとなりますように。