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2024/02/08、『PERFECT DAYS』と「文学」への眼差しについて

朝一で歯医者に行き銀歯を入れた後、ちょうどタイミングが嚙み合ったので京都シネマに自転車で向かい、ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』を観てきた。
周囲にきくところ前評判はとても良く、楽しみな気持ちで向かったのだけれど、この映画を観て、近頃の自分が見落としていたこと、もう一度心に強く刻んでおきたい大切なことを、教えられた気がした。

それは、「人が生きること」、あるいは「文学」と、それを眼差す「観点」との関係である。
生きるということを最も深いところで擁護するとき、それはあらゆる「観点」をも、撥ねつけるのではないか、そういう感じを、この映画は、ぼくのなかに思い起こさせた。


前日譚がある。この映画を今回スクリーンで見る前、この映画について、お互いに見る前の状態で、友人と話して、なんなら少し揉めた。というのは、これを観る前の映画の前評判として、東京という都市で、公衆トイレ掃除という目に見えぬエッセンシャルワークを生業にしている中年の男(主人公の平山:役所広司)の日々を美しく描いており、またそれが概ね世間に好評であるという情報を、ぼくと友人は共有していたのだが、そうして映画がウケているという事実に対する意見が、二人では全く違ったからだ。
友人が言うのは(僕が受け取った限りでは)華やかな都市生活を支える低賃金労働者の生活を、「低賃金であっても、立派で美しい」などという像で救済的に描くことは、都市の矛盾、都市生活を誰にも見られないところで支えるいわゆる3K労働の苦しみを隠蔽することではないか、またそれが世間にウケている、というのは、都市生活の、あるいは資本主義社会の矛盾を感じている人々が、「社会に矛盾はあるが、しかし世界は美しい(美しくありうるのだ)」、とか「何気ないことでも、日々のささやかな楽しみが大事だ」というように、矛盾への反発、抵抗を抑えて、現状肯定することを意味しているのではないか、というようなことだった。かなり乱暴に言い換えれば、彼は、この映画について、ブラック企業で働く人にとっての週末のサウナのように機能しているのではないか、と指摘していた。

対してぼくの(事前の)見方は、それとは違っていた。というか、真っ向からぶつかっていた。ぼくの考えでは、ヴェンダースという監督は、社会の現状肯定というような映画を、少なくとも意図としては撮らない、むしろヴェンダースは、そういう、搾取-被搾取、大企業と哀れな零細労働者(と後者の美的救済)という観点にこそ、抵抗しているのではないか。ヴェンダースは、そういう、貧しいから不幸だ、社会の構造が是正されるべきだ、というような、いわば左翼的問題意識に抗っているはずで、むしろ、どんな経済的状態にあるにせよ、どんな矛盾に満ちた社会構造の只中に居るにせよ、そんなこととは関係なく人間に保持される「尊厳」をこそ、描き、撮る人ではないか…。また、世間の人々にそういう映画が感動を与えているという事実は、必ずしも労働者が「社会の矛盾」から目を逸らし、またブルジョワジーがそれを隠蔽しようとしている、というようなことではなくて、そうした観点に関わらない人間の幸福、尊厳を、見てとっているからではないか、そんなことを話した。

ぼくの反論に対して友人は、でも、この映画の協賛にはユニクロやTOTOがついている、臭わないか、といい、それに対してぼくは、協賛やプロデューサーの狙いが仮に君の言うようなところにあったとして、ぼくの知るヴェンダースなら、むしろそういう金持ちの意図を逆手にとって、金持ちが出資するくらいには納得するような、しかし、観る人が観れば、もっとラディカルなことを描いているのではなかろうか、と返した(自分はそんなに頭の回転が速いほうではないからその時の時点でここまで雄弁ではなかったけれど、そういうことが言いたかった)。

この対立は、いや、川副の言う、「尊厳」云々という意図が、しかし結果としては、「矛盾の隠蔽」として機能してしまうんだ、、いや、そうやって矛盾やそれを隠蔽する力学を見出し強調する観点にこそ「尊厳」は抗うのだ、という形で、原理的には埋められない懸隔であると思い、なによりも、映画を観ずしてこれ以上言っても仕方がないと思ったから、やはり映画を観てみようということになり、止めた。

そして、今日、京都シネマで映画を観てきたのだ。(京都シネマもこれが最後!?)
そして、ぼくは、反省を迫られた。それは、ぼくより友人の立場が正しく思えた、というのではなく、おそらくこの映画は、友人の観点も、それに反発するぼくの観点も、両方とも、撥ねつけているように思えたからである。

どういうことか。

ぼくの理解では、友人は、左翼的観点からこの映画の、あるいはこの映画の社会的機能の問題を指摘している。左翼的だ、というのは、社会構造の視座から実存の在り方を規定しているということだ。この視座からは、役所広司演じる主人公・平山は、都市消費社会に搾取される不遇な労働者として、眼差される。対して、ぼくは、監督は、そういうある種の上から目線の「眼差し」に嫌悪感を示しているのではないか、誰かに勝手に「哀れな労働者」として見いだされようが、その人はプライドを持って生きており、そのプライド=自尊心=自己自身に対する尊厳の感覚をこそ、この映画は描いている、と主張していた。もちろん、ぼくは左翼的観点が必要ないと思っているわけではない。しかし、それでしか世界を捉えられなくなると、ものの見方はかなり貧しくなり、また、左翼的志向は、ある種の「正しさ」ゆえに、そのような極端化を簡単に誘発してしまうと考えていて、その点、ぼくの左翼的観点への警戒が強いのは紛れもない事実である。
だが、実際に映画を観てみたら、今回のぼくと友人のように、他人の人生(作品)、つまりは「文学」になんらかの観点を持ち込んで、思想を戦わせていること自体が、可笑しなことであるのだ、と、この映画は、告げているように思われた。すなわち、友人が左翼的観点を持ち込んでいることにぼくは嫌悪感を示したけれど、ぼくも同じように、左翼的観点への抵抗、という視座を持ち込んでいたのではなかろうか…そう思い、反省をせざる得なかったのである。

このことは、ぼくが大学で学んできた戦後批評の、とくに、「政治」と「文学」の対立という文脈に寄せて書くこともできるだろう。太宰治は、戦後になって急に、真の民主主義者なら今こそ天皇万歳というべきだ、と吠えたが、そういう太宰が、どういう感性を持ち合わせていたのか、哲学者で文芸批評家の竹田青嗣は次のように書いている。

戦後、人々はずっと、戦争中の文学者およびその文学がよく戦争に抵抗したか否かということを、文学的に重要な問題だと見なしてきた。それは時代の趨勢として自然の赴くところだったと言うほかない。しかし、わたしの考えを言えば、そのような視線には、どこか危うさがある。たとえば、戦争前後の太宰が最も敏感に反応し、嫌悪したのは、文学についてのそのような視線である。(…)誰が間違った天皇制に反対したか? 誰が圧政に最もよく抵抗したか? そういう社会的な「正しさ」のリトマス紙で「文学」を反省するような視線がある。ところが太宰の直観では、それは皇国イデオロギーの正義を持ち回った軍部の思想とほとんど同質のものなのである。太宰がそこにいわば自らの文学的な”党派性”を自覚していたことは明らかだ。

竹田青嗣「サロン思想について」『竹田青嗣コレクション2恋愛というテクスト』(海鳥社)

ここで竹田が言っているのは、皇国の「正しさ」を言った人と、それに対する抵抗の度合いで文学の「正しさ」を言う人は、表面的には対立していても、本質的には同じだ、ということであるが、ぼくにとって興味深いのは、ぼくが卒論で取り上げた加藤典洋が、この竹田の謂を引いて、次のように書いていることである。

ここで竹田は、それまで戦後、ほとんど誰一人いわなかったことをいっている。文学は、時の権力に対してどれだけ芸術的な抵抗をしたか、という観点ではかられるべきではない。このような考えなら、これまでもしばしばたとえば芸術至上主義者などによって示されてきた。しかし、竹田は、そうではなく、文学はむしろ、そういう「観点」、芸術的抵抗という、文学の外から働きかれる「観点」に、それがどのようなものであれ、抵抗する、そういうのである。
ふつう、この種の芸術的抵抗という見方に対する対抗的主張は、文学はそのような左翼的観点によってだけでなく、純粋に美的な芸術的観点から判断されるべきだ、あるいは、どれだけ人々に感銘を与えるか、という観点から判断されるべきだ、と続く。それらは、社会的な「正しさ」という芸術的抵抗の立脚点に、芸術、あるいは、皇国、国民の「正しさ」といった別種の価値を対置する。しかし、文学は、そのような「観点」、芸術という観点、芸術的抵抗という観点、国家という観点、つまり文学という行為の外に立ち、これにいわばイデオロギーとして働きかける、どのような「観点」の正しさにも対抗するのではないか、それが文学の本質なのではないか、それがここに示されている竹田の考えなのである。

加藤典洋「戦後後論」『敗戦後論』(ちくま学芸文庫:2016)pp.135-136、強調は引用者

文学は、国家がそれを眼差す観点にも抗う。文学は左翼の観点にも抗う。そしてまた反左翼の観点にも抗うのである。
友人は、ざっくり言って反資本主義の観点から、言い換えれば左翼的観点からヴェンダースの映画に対して、——「正しさを判定する」とは言わないまでも——疑問を投げかけていた。少なくともぼくにはそのように見え、それに対して、むしろヴェンダースはそうした左翼的な観点にこそ、抗っているのではないかと(観る前から予測して)反論した。しかし、ぼくも、ヴェンダースの映画を、左翼的観点に抗っているという観点から擁護していた点、同じように、外在的な判定を、この映画にしていたのである。

この映画は、しかし、ピシャリとそういう姿勢を撥ねつけた。特に役所広司の最後から3カット目の、顔面のロングショットは、ぼくらの、それを政争の具にしようとするような態度を撥ねつける、まさに「顔」(レヴィナス)であったと、ぼくには映った。


しかし、そうだとすると、私たちにとって信じるべきものはどこにあるのか。何を否定し、何を肯定するべきか。あるいは、私たちが生きていく中で、あらゆる観点を留保しながら、それでもなお「これはほんとうだ」と思える判断の基準はどこにあるのか。

この映画のモチーフは夢。このことが大きなヒントになるかもしれない。平山の夢と覚醒がこの映画では繰り返し描かれていた。

ある論壇時評が思い浮かぶ。
かつて見田宗介が朝日新聞の論壇時評を務めたとき、竹田青嗣の陽水論に寄せた印象的な一節。

竹田の文章が要所で放つ「ほんとうに」という副詞は、書くことの外部からくる息づかいのように、彼の論理の展開の、生きられる明証性のようなものを主張している。宮沢賢治は「ほんとうの」しあわせとか考えとか世界を求めた。竹田の断念は、<真実>を方法の場所に、形容詞でなく副詞の場所にまでしずめている。(…)
 どんな「真理」の体系も底抜けであるということがわたしたちにとって真実であるのは、ゲーデルが数学的に証明したからどうとかということではなく、戦後社会の転変や二〇世紀のいくつもの理想の崩壊から来ているのだと竹田はみている。けれどもこのことをいまさら言いたいのではなく、それは出発点にすぎない。だから現在重要なのは、この「無根拠性」にもかかわらず「なぜ、言葉に動かし難いリアリティが訪れたり去っていったりするか、ということのほうなのである。」
 正しいと思う。
 竹田が井上陽水論で書くのは、たとえばつぎのようなことだ。人は挫折をとおして、憧憬や感傷や理想を奥歯で嚙み殺すリアリストになる。「陽水もその痛恨が滲まなかったはずはないが、彼は自分のなかのリアリストの方を噛み殺したのだ」。
<色はにほへど>の「いろは歌」の結末を、<あさき夢みじ 酔ひもせず>というもとも読み方から転回して、<あさき夢みし 酔いもせず>というひとつの“口惜しさ”としてとらえた、ビューティフルな誤読というべきものは、新鮮な衝撃をわたしに残した。色即是空ではなく空即是色こそ、わたしたちの時代の、課題なのだ。
夢から醒める、ということが、感動の解体であるばかりでなく、いっそう深い感動の獲得でもある、というところにつきぬけていく力として、フッサールは(井上陽水は)、竹田にとってわたしにはあるようにみえる。

見田宗介「夢より深い覚醒へ」
『白いお城と花咲く野原』(河出書房新社:2023)pp.86-88、強調は引用者

平山は、平淡な現実(リアル)から逃れるために夢を見るわけではない。夢は週末のサウナではない。「平山が天使に見えた」と評している人が多いが、平山が「天使」に見えるのは、彼の夢の方が現実へと重なり、あるいは現実へと流入し、夢を見るように、美しい現実を彼が生きるからだと思う。
執拗に映る隠喩的なスカイツリーを見上げながら、それでも日々満ち足りているなんて、そんな平山のような生き方ができる人は多くないだろう。この映画は、その意味でリアリティが薄いと感じる(ある友人が、トイレが綺麗すぎると文句を漏らしていた)。この映画のコピーは、「こんなふうに/生きていけたなら」。平山の暮らしはだから、私たちにとっても夢なのかもしれない。しかしそうした平山の暮らし、ひいては映画に、私たちにとっての単なる逃避先以上のものがあると思わされたなら、そうした感触は、彼が夢よりいっそう夢のような現実を生きていることに由来しているのではないだろうか。

夢より深い覚醒を、そしてビューティフル(甘美=完備)な誤読の日々を、この映画は私たちに見せつけている。

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