清里の森で水に酔う
背筋がピンとなる沢
清里の森を流れる沢は源流にほど近く、水流はやや速いが、水はどこまでも清く、川底の様子がはっきりと見てとれる。
恐る恐る足先を川底に沈めてゆく。全身に力を入れ、身を固める。
声帯のさらに奥深くから「グワァーッ」と声が漏れる。
一瞬、水音が耳から消える。膝から下の感覚は、もうない。
長袖を持ってこなかったことを後悔する。
しばらく清流につかっていると、不思議と凛とした心持ちになる。
ゆきづまって東京に置いてきた仕事も、今後どうなるかわからない気がかりな状況も、いったんどこかに片付けられた。
心が洗われるとはこういうことだろうか。
清里の水はカラダのみならずココロも潤す。
頭が茹であがりそうな八月のある日、わたしは八ヶ岳清里の竹早山荘を訪れた。そこで植物と動物、土や人など森とともに生きる生態系と向きあった。
竹早山荘の前回の記事はこちらです。
森に建つサグラダ・ファミリア
沢を上流へ歩き進んでいくと、沢沿いの土手のうえに、見慣れない光景を見つけた。
地面から土が円錐型に隆起し、先端に種子と思われる塊がちょこんと乗っている。中には小さな茎や葉がのぞき発芽しているものもある。(扉の写真がその光景です)
この隆起は種子が根を伸ばす過程でできたものだろうか。
その姿は、ガウディが生物をモチーフとしたサグラダ・ファミリアの有機的な外観を思い起こさせる。
未完成ながら世界遺産となったスペインの建築物は着工から140年が経過している。この萌芽は発芽してからまだ4、5日だろうか。
これから50年の歳月をかけて立派な成木へと成長してゆくのだろう。
芽吹きの力強さと母親のように横たわる沢、それを包む森。
生気あふれる建築物を発見できたことに心が弾んだ。
水を飲んで酔う
沢から山荘にもどりひと息つく。
キッチンカウンターの傍らに何かが漬け込まれた水のボトルが並んでいる。
「これは何の水ですか」と聞くと、森で摘んだ松の葉やどくだみをひと晩漬け込んだ水だという。
松葉水をひとくちいただいてみる。森の空気を凝縮したような力強い香りがする。肺や胃腸が浄化される清々しさがあり、二日酔いの朝に最適だ。
どくだみは飲みにくい健康茶というわたしの思い込みを見事に裏切った。
味は意外にもほのかに甘く、すべるように喉と胃を通り過ぎ、体に染みた。
森のエキスをとり入れ、ココロもカラダも潤ったわたしはそのあと陽光さすテラスでたっぷりと微睡んだ。
ホタルとのコール&レスポンス
暗闇を、明かりをつけずに歩く。わたしは鳥目で夜に目が効かない。
脚にあたる熊笹のかすかな感覚だけを頼りに、一歩一歩確かめるように進む。思っていた以上に怖い。暗闇には根源的な恐怖を感じる。
ホタルを見にいくのだ。
ほう ほう ほたる こい
あっちの水は にがいぞ
こっちの水は あまいぞ
というわらべ歌があるのは知っているが、首都圏育ちのわたしは一度もその姿を目にしたことがない。
ホタルの幼虫は澄んだ水に生息するカワニナという貝を食べ、成虫後は夜露などの水分しか取らない。水には格別のこだわりがあるのだ。
ホタルが生息しているとされる池にたどり着いた。
はたして、ホタルはいるだろうか‥‥
どんな光も見逃すまいと、目を見開く。
自分がほとんど息をしていないのがわかる。心臓が波打っている。
指示されるまま、持っていた懐中電灯の電源を入れ、二、三回左右に振ったそのとき。
「ほら、あそこ!」
二つ、三つ、いや五つの青白い光の粒が、現れては、消えた。
目の前にいるのか、はるか遠くで光っているのか分からない。
だが、たしかに、わたしの振る手に合わせるように、光の粒は自らを表現するように舞った。まるでコンサート会場でのアーティストと観客のコール&レスポンスのようだ。
わたしは瞬く光から目を離すことができない。
からだの中心が熱くなり、血が穏やかに末端まで運ばれていく。
「これがホタル、初めてみた」
森と水がもたらす豊かさに、わたしは酔いつぶれてしまった。