走るメロス (走ることについて思うこと)
人はなぜ走るのか。ダイエットのため、競技のため、電車の発車ベルが鳴り始めると人はパブロフの犬宜しくよく走る。
メロスは竹馬の友であるセリヌンティウスを処刑から救うために走った。羊と遊んで穏やかに暮らしていたメロスは、幼なじみが殺されるような事件でも起きなければ走らなかったかもしれない。
私は走ることが心底嫌いだった。学生時代に十字架を背負って走らされた辛い記憶が蘇るからである。
私が中学生だったころ、クラス男子全員の1500m走の平均タイムが6分30秒を切るまで延々と走らされるという地獄のイベントがあった。
当時、60年代から70年代の高度経済成長期におけるスポ根ブームに感化された教師がたくさんいて、私たちはとにかくよく走らされた。
私のクラスの男子は15人中6人が柔道部で、そのうち2人は体重100キロオーバーの巨漢だった。
1回目のクラス平均タイムは7分15秒。クラス全員が1分近くタイムを縮めないとクリアできない計算だ。到底終わる気がしない。
2回、3回、4回、...8回、9回... 過酷なチャレンジは延々と続いていた。
他のほとんどのクラスは3回以内で目標タイムをクリアし、楽しそうに球技に興じていた。
それを横目に私のクラスの生徒は永遠に終わることのないメビウスの輪のようなトラックを虚ろな目で走り続けていた。
これでもう最後にしたいと毎回思いながらのチャレンジ11回目。クラスの平均ベストタイムは6分42秒まできていた。だがクリアまでは全員が12秒縮めなければならない。
私はクラスで一番タイムが良かったので、仲間の「あとはおまえ頼みだぞ」という無言の目線が刺さる。
私は「もう これで 終わってもいい だから ありったけを・・・」とばかりに能力の限界を超えて全身全霊で走った。
結果は個人のベストタイムを20秒更新。しかし全てを出し切った私はゴール直後に酸欠で倒れ保健室からストップがかかった。万事休す。
あとは長距離が得意だったサッカー部の岩本君に託すしかなかった。
そのとき奇跡が起きた。
本来トラックを7周半してゴールするところを、走っている最中に意識が朦朧とした柔道部の2人が6周半でゴールしたことを本人たちも教師も気づかず、大幅に記録を伸ばし、目標タイムをクリアしていた。
あっけない幕切れであったが、こうして神の見えざる手の救済により、私たちの1500m走は終わった。
こんな辛い記憶が、私を走り嫌いにさせたのかも知れない。
そんな私が、いまでは週3回のランニングを楽しんでいる。
きっかけは、古くからの友人にたまたま誘われたマラソン大会への出場だ。
はじめは大会に向けてのトレーニング目的だったが、気がつけば無目的に外を駆け回っていた。走ることは気持ちがいい。頭がすっきりして精神がいい状態に入る。掃除をして部屋がきれいになると気分が良くなる感覚に近い。
走ることは人間の、いや動物の根源的欲求なのかも知れない。
現代的な生活を送り社会と交われば、辛いことは起きるし疲れることも多いが、食べて寝て種を残すこと以外の大半のストレスは走ることで解消されるような気がする。
友人達と定期的にマラソン大会に出るようになって、走る楽しさが増した。
「残り2キロはキツかった」とか、ゴールしたあとの爽快感、達成感。苦楽を共にできて嬉しい。なにより完走後の温泉とビールが最高だ。
やはり友を処刑から救うためや十字架を背負いながら走るより、自分が楽しむために走った方が健全だ。
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