情報という名のブランディング
SNSの発展によって、誰もが簡単に情報を発信できる時代になった。キュレーションという言葉でも言われているが、新しいニュースに対して最近の皆の群がりように辟易するシーンがよくある。ニュースを発信(実際はただコピペしているだけだが)することが自分自身のブランディングになり、あたかも”俺知ってるぞ”感が漂う。自分の得意領域や強みに寄せて、一言その事象にコメントをつけてRetweetすればあたかもその人が、そのつぶやいた事象に対しての専門家に見えてくる。
ニュースをみて、何を感じて、その背景にあるものは何か、という分析視点を持つことは大事だし、人によってその考え方も千差万別。ただ、その千差万別感も、ある一定の方向性の中に含有されていて、そのパターンも限定されている。逆に言えば、語られる人の身なり、属性によってニュースの価値が変わってくる時代だ。
これだけのデジタル社会なのだから、正確性と深度(深い視点で分析されているか)によってもう少し情報がソートされていてもよいはずなのだが、Fake Newsと叫んでいたり、常に自分たちのことを正しい、としか言わないような報道官をみていると、情報の流通量が極端に少なかった武士の時代と、情報の付き合い方は変わらないのかもしれない。