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普通であることの自由

「来年2024年は #自分の本をつくる でいくぞ」と宣言してから半月がたった。

最初の時の夢見るような思いはない。
だからといって諦めるつもりもない。
決めたのだからきっと自然に目標に向かって育っていく。
そう信じている。

行動することよりも大切なことは信じること。
信じてないのに行動しても空回りするが、行動していなくても信じていれば前進する。
進展がないことに動揺しない自分、信じられる自分になったのは動揺して信じられず実現しなかった過去があるからだ。
散っていった夢たちよありがとうという気持ちである。

じゃあ今日も進展してないのかというとそうではない。
進展があった。
さすがに進展がないのに毎回「進展はないが信じている」ばかり続いたら読む人も「この人の夢、実現しそうにないなぁ」と思ってしまうと思う。
せっかく読んでくれているのにそれは申し訳ない。
僕が本をつくる夢を実現するからこそ読んでいく甲斐があるわけで、結局実現しなかったら残念な思いになるはずだ。
「今まで読んできた時間を返してくれ」と思う人もいるだろう。
20代前半からつきあい始めて30代半ばまで一緒にいたのに、30代後半で「好きな女ができた」と言われて「私の時間を返せ!」という女の気持ちは女じゃないけど共感できる。
男としてそれはやっちゃだめだろうと思う。

で、なにが進展したかというと「本のテーマ」が浮かんできたのだ。
本をつくるぞ!と言ったのにエッセイのひとつも書かなかったのはテーマが決まるのを待っていたからなのだ。

テーマが決まらないのに走り出したらブレブレになる気がした。
ただの直感なのだけど、経験が直感を生んだ気がする。
かれこれ8年もブログやnoteを書いてきた。
ブログは裸足ランニングをテーマに書き始めたのだけど、すぐにネタがなくなり「書かなきゃ!」と思って雑記ブログにしたらブレブレにブレていった。
noteは最初から雑記だった。
もちろんブレブレである。

今まで書いてきたものをエッセイ集にできる人もいるけど、そういう人の場合はテーマがうまく絞られているのだと思う。
#自分の仕事をつくる会 を一緒に運営している伊藤七さんは「働きたくない人間がいかにして働いていくか?」という葛藤をnoteに書き続けたからそれが一冊の本になり、文学フリマで出店したらあっというまに完売した。
友人のライター・小太りさんも去年から文学フリマに出店し、これまで作ってきた3冊の本が同じように完売した。
彼の場合には「上京生活」というテーマが軸にある。
内容が楽しいものもあるが、読んでいて統一感があるのも安心感があるのだろうと思う。

そして僕である。
僕は何をテーマに書いたらいいのだろう?と思った。
・瞑想?
・運営している呼吸の家ができるまでの話?
・僕の考え方?
うーん、なんかどれも違う。
共感要素が少ない気がする。

瞑想なんて大家が書いたものを読みたいだろうし(一般瞑想者の体験記も読みたい人はいるだろうけどニッチすぎる)、呼吸の家ができるまでの話は直接話せばいいしわざわざ書きたいと思わない。
自分の考え方なんて論外だ。
わかってほしい気持ちはあるけど本を買ってまで読んでもらえるとは思えないし、noteに書いて読みたい人に無料で読んでもらえばいいと思う。
そんなこんなで「じゃあどうしたらいいんだ?」となっていた。

でもおじさんは慌てない。
「慌てる乞食はもらいが少ない」
これはここ数年僕が大事に思っている格言だ。
ゆったりのんびり構えていれば答えは自ずと向こうからやってくる。

そして悠然と待っていたら今朝、向こうからやってきた。
真夜中に濃い夢を見た。
起きたら3時過ぎだった。
夢の内容を夢ノートに書き、そのあと裸足でトイレにいく。
今朝は12月1日。
足の裏が冷たかった。

僕はずっと裸足にこだわってきた。
裸足ランニングに出会い、裸足でマラソンにも出場し、山を登るときも裸足、一時期は東京にも裸足で出かけていた。
しかし裸足で生活していると目立つ。
都会の人はギョッとした反応をすることもあるし、僕自身が見られている感じがして心地よくない。
裸足でいることは心地いいのだけど、人間関係がここちよくない。
田舎の人たち、とくにおじいさんおばあさんは裸足に対して寛容、というかむしろ「健康的だねぇ」と褒めてくれるのだけど、やっぱり裸足であることは気になるらしく僕と会うと僕の顔を見たあと足元を見る。
そんなことが続いていると申しわけないような面倒くさいような気になってサンダルを履くようになった。

サンダルを履くと周りの人はあまり足元を気にしなくなった。
「寒さに強い人」という認識だったり「寒くないのかなぁ?」と思う程度に収まった。
そうして僕は普通の人になった。

裸足の人から普通の人になってみると心地よかった。
特別視されないことは自由だった。
特別視されてしまうと、そうあらなければならないような気がしてくる。
自分がはじめたことだから好きなときに裸足になったりサンダル履いたりすればいいのに、サンダル履くことに抵抗感があったりした。

「あの人はいつもブスっとしている」と人に思われている認識があると、人に対してニコッとするのが難しくなってくる。
「いつも悪タレ口ばかり言っている」と思われていたら、親切で優しい自分になるのは難しい。
そんなふうに人は周りが持っているであろう自分のイメージを無意識にトレースしてしまう。
「あの人はいつも裸足」と思われている認識があるからクツを履きづらくなってしまう。
裸足にこだわっていた僕はそんな状態になっていた。

でも今は基本的にサンダルを履き、冬は暖かいくつを履く。
裸足になるのは本当にまれになった。

そして今朝、家のなかで裸足だった。
今朝は裸足だったけど、冬になって今年はあたたかいルームシューズを買った。
今もこれを書きながら履いている。
くつ下は頭がぼーっとするから苦手だけど、ルームシューズなら裸足感覚があって気持ちがいいし、頭もぼーっとしない。

トイレから戻りルームシューズを履いた僕は思った。
「もう僕は普通でいい」
心の声だった。

僕はずっと何者かになりたかったのだと思う。
親の期待に応えたいと思ったのがきっかけだろうけど、結局特別な人間にはなれなかった。
特別といえば誰しもが特別だから僕も特別なのだけど、世間の注目を浴びるような特別な人間にはなれなかった。
その代わり、そういう無理を重ねてきたおかげで普通であることの幸せ・心地よさ・自由を知った。
これはもしかしたら世間から注目を浴びる特別な人にはない感覚かもしれない。
特別視されている人が自由に素の自分として振る舞うのは難しいに違いない。
特別視する人が周りにいる限りどこか不自由さを伴うと思うのだ。

僕はこれを本のテーマにしようかと思った。
「普通であることの自由」
「注目されないことの幸せ」
「頑張らない喜び」
こういうようなことをテーマにエッセイを書いてみようと今は思っている。
親の期待をきっかけで頑張るマンになってしまい、何者かになろうとして苦しんでいる人はたくさんいるに違いない。
「なんで苦しいのに自分はがんばってしまうのだろう?」と悩んでいる人もたくさんいるだろう。
そういう人に「いったん普通になればいいんじゃない?」「ラクになれば本来の自分が見えてくるよ」と伝えられる本になったらいいなと思った。

でもまだ動き出さないだろう。
もうちょっと寝かしてみる。
動くときには勝手に人は動くものだ。
想像している以上に僕らはこの世界に生かされている。
何日後かわからないけど、この世界が僕の背中を押してくれることだろう。
「そろそろ書いてもいいんじゃない?」って。
その時ぼくは納得感を持って書き出すのだろうと思う。


▽ 鋸山(千葉県)の麓で呼吸で体を整える場所を運営しています。

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