【日記】死亡事故の現場
今日(日付変わって昨日)、所用でとあるエリアを訪れた。
その一角に、死亡事故の発生した場所がある。
すでに事故発生から数年経過しているが、事故現場には今でも注意書きと共に花が添えられている。
今日、その事故現場で、一人の小学生が手を合わせたのを見た。
その子は事故現場を通りかかると一瞬立ち止まり、さっと手を合わせ、頭を深々と下げ、そのまますぐ立ち去った。
一瞬の出来事だが、確かに手を合わせていた。
そして軽くではなく、深々と頭を下げたのだ。
上述の通り、その事故は発生からすでに数年経過しており、付近の住民の方の記憶から薄れている可能性さえある。
そんな中で、あの小学生は一瞬でも立ち止まり、一人で手を合わせて深々と頭を下げたわけだ。
その後、私も事故現場を通り、手を合わせて頭を下げた。
私はその事故で亡くなった方のことは直接知らない。
また、私は宗教的な思想もなく、赤の他人の死を悼む方法に長けているわけでもない。
ただ、そのエリアを訪れ、事故現場を通りかかるとき、一瞬立ち止まって手を合わせ、頭を下げることはある。
その際の私の心理は、自分でもよくわからない。
同情なのか、自己満足なのか、義務感なのか、正直よくわからないものだ。
ただ、私はその自分の心理状態を分析しようとは思わない。
わざわざ深く考えて分析する気など起きない。
赤の他人の死を悼み、手を合わせたり頭を下げたりする。
そこに細かい理由が必要か?
同情だろうが自己満足だろうが義務感だろうが何だろうが、冥福を祈るくらいのことにいちいち理由が必要か?
私はそうは思わない。
今日見た小学生の子は、事故現場で深々と頭を下げていた。
足早に去っていった様子から、おそらく急ぎの用事があったのだと思われる。
しかしその子は一瞬でも立ち止まって手を合わせ、確かに深々と頭を下げたのだ。
無垢で人間らしい行動だ。
その子の心理状態の分析などする気になるだろうか?
私はならない。
ここで深く分析するのは野暮というものだ。
あの子は死亡事故で亡くなった方を知っているのか?知らないのか?
あの子の親が手を合わせて頭を下げるように教えたのか?
それとも自分で何かを感じて冥福を祈るようになったのか?
などと、考えようと思えばいくらでもできるが、それは野暮だろう。
事実として、あの子は立ち止まって手を合わせ、深々と頭を下げた。
それ以上それ以下でもない。
死者を悼む行為の理由も背景も、分析はいらない。
同じく、私が赤の他人の死を悼む理由も、特に自分で分析する気にならない。
常々思うことだが、世の中には深く考えなくて良いことがある。
深い思考が野暮になることもあるわけだ。
今日、あの小学生の無垢な振る舞いを見て、改めてそう思った次第である。
何かと論理的な理由をつけたがる大人は、時に野暮だ。
そして、野暮な思考が人間らしさを失うこともある。
特に大人になると、赤の他人の死などどうでもいいという見方もあるだろう。
他者の死を悼む理由がよくわからない、といった思考に至る人もいる。
しかしその発想自体がすでに「考えすぎ」なのだ。
誰の死であれ、ただ冥福を祈るくらいのことに理由などないのではないか?
深く考えず、ただ他人の死を悼むだけで良いのではないか?
さて、当たり前だが、死亡事故の現場は全国の至る所に存在する。
上記エリアに限らず、死亡事故の起こった場所は他にもいくつか知っている。
注意書きが設置されていたり、花が添えられていたり、祠が建てられていたり、現場は様々な形で事故の悲惨さや安全運転の重要性を訴える。
私はそんな各現場を通るとき、一瞬でも手を合わせて頭を下げることが多い(時間によるが)。
相変わらず理由はわからないし、知る気にもならないが、この習慣は今後も続くだろう。
人として、深く考えなくて良いことがある。
今日改めて、あの小学生に教えられた気がする。
こんな時代だからこそ、良い意味での人間らしさは失わないようにしたい。