不幸の反対は不満
昨年の年末のこと
忘年会を終えて、電車に乗ろうと歩いていると
お寺の外によくある掲示板にこのようなことが書かれていた
「不幸の反対は不満」
よく、お寺にある掲示板には格言が書かれていることが多い
ためになる言葉も多く、僕は好きだ
しかし、この言葉
ん?不幸の反対は幸福ではないのか?
帰りの電車に乗っている間、ずっと考えていた
なるほど、これは単純に反対語の意味ではなく真理なのだ
不幸の反対は通常、幸福だ
だが、幸福な状態が続くと人は不満が出てくる
満たされていないことへの不満
与えられないことへの不満
足りないものへの不満
最初は喜んでいたサービスや仕組みも
慣れてくると、それがないことが不満になる
要望や思いが叶うと嬉しいと思っていたことも
それが当たり前になると、要望や思いが叶わないことが不満になる
たしかに、今の日本は不満に満ち溢れている
こんなに豊かで安全な国である日本の幸福度は極めて低い
自殺者がこんなに多いのも日本と韓国くらいだと聞いたことがある
満たされ続け、与えられ続け、それが当たり前になって感謝がない
これは危険だ
働くこと、仕事にも不満が溢れていると最近は感じる
あたかも不満があることが当然で、ない方がおかしいとうったえる人さえいる
これは日本の学校教育にも問題があると思う
学生の時に
「勉強は辛くて苦しいものだが、将来のためにやらねばならない」
と日本ではされている
それが働くようになると
「仕事は辛くて苦しいものだが、生活のためにやらねばならない」
となる
だから額面や労働条件、福利厚生が充実している方がよいとなる
これは、学校で良い点数を取ることが目的になっているのと似ている
給与額が自分の唯一の評価になってしまっているのだ
しかし、辛いことが多く、心が悲鳴をあげてくると
人の役に立つ仕事がしたいとなる人もいる
しかし、そもそも人の役に立っていない仕事なんてほとんどない
きちんと目の前の仕事や相手と向き合っていないからそういう発想になる
これでは幸福度はいつまで立っても上がらない
仕事の目的、勉強の目的がずれているというか、見えていないのだと思う
本来は。まずそこを学校では教える必要がある
そこを踏まずに、勉強しろ勉強しろ、しないと将来苦労する
と言われるので、どんどん学校や勉強が辛くなる
自由と権利がないと思ってしまうようになる
「不幸の反対は不満」
まさに、今の日本を表した真理だ