本を読まないとバカになるという常識
20代のころ、横尾さんとは二度、お会いしている。ぼくが大衆向けの週刊誌で対談のページを担当していたのでゲストをお願いした。当時から売れっ子のイラストレーターだったが、どちらも、出演を快諾してくださった。
横尾さんはまぎれもない天才である。対談の内容よりも、ぼくは、横尾さんの謦咳に接するだけで満足していた。横尾さんにしてみれば、メリットなどない雑誌でのゲストだったはずだ。
年間50人からのゲストをお願いし、それを3年から4年ほど担当したので、たぶん、200人近い有名人をお会いしているはずだ。一流好みのため、相手にしてくれなかった方々も少なくない。そんな中で、天才でありながら、偉ぶったところがまったくなかった横尾さんは別格の方だった。
その横尾さんが読書嫌いで、「本など読まなくても生きてこられた」と明言されているのを『デイリー新潮』の記事(『週刊新潮』の6月20日号掲載記事)で知った。ぼくは横尾さんのような天才ではないが、読書嫌いの負目を背負ってずっと生きてきたひとりである。
横尾さんは天才なので読書嫌いでもいいとは思わない。まず、読書には集中力が必要だとのご指摘は正鵠を射ている。しかし、横尾さんのように、心が拡散していて、ひとつのことに集中するのを苦手にする人間はたくさんいる。
たしかに、読書は人の考えを頭で暗唱する行為である。横尾さんのように、画家の肉体から放たれる情念や感情をそのまま食べ、栄養にしている人もいるだろう。読書こそ人間の証であり、至高の営みであるという錯覚はそろそろまちがいだったと気づくべきではないだろうか。
本を読む行為に至上の喜びを見いだし、満足している人はそれでいい。だが、読書は人間であるがゆえの万人に共通の卓絶した行為だとの認識は明らかな錯覚でしかない。本は読みたい人だけが読めばいい。天才でなくても人はそれぞれである。