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気ままに生きる代償

 仕事を持っていたころは、仕事の予定にしたがって1日がまわっていた。ぼくは会社勤めをしていたから、会社の始業時刻にタムカードを打刻してその日が、とりあえずはじまった。
 寝不足だろうと、風邪気味だろうと、決まった時刻に家を出て、同じ電車に乗って出勤し、そして、その日がはじまる。

 つまらない人生だと思う方もおられようが、とても気楽だった。
 ある時期から、タイムカードがいらない身分になった。カードがあったころは始業時間まぎわに出社していたのが、なぜか30分ほど早く出社するようになった。もうひとつ身分が高くなると、いくつか理由はあったものの、1時間ばかり早い出社となっている。

 早く着きすぎると、コーヒーショップで孤独な時間をつぶした。そんな時間がさほどでないときは、近くのホテルのロビーで過ごした。早く着いているのを知られたくなかったらだろう。
 そのかわり、終業時間がくると、特別な予定がないかぎり、さっさと自室をあとにしている。

 75歳でリタイアして、時間が無限になるとかえって戸惑ってしまった。1日の24時間をどのようにでも使える。では、どうやって使うのか。テーマは、たかだかそれだけなのに呆然としてしまった。

 さいわい、犬を飼っていたので、早朝の散歩は距離を伸ばし、夕方の散歩は、頻繁にコースを変えた。日々の生活の相棒はこの犬だけだったから気楽で、ひたすらダラケて過ごした。

 2、3日前、まだ、朝になりきらないうちに目覚めてしまい、思い立って駄文をタブレットで作った。そのせいだろうか、このところ、午前4時前に目が覚めるようになった。
 体内時計は24時間で時を刻んではいない。そこで、こうした狂いが生じるのだと、だいぶ、昔、何かで読んでいる。

 日々の会社への出勤がなくなると、そんな時制の狂いが周期的に生まれてくる。勝手気ままに生きていくのも苦労である。

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