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キミはなぜそこにいるの?

 南北朝の時代から記録のあるイチョウの古木にかけられた古巣の近くに、毎朝ではないが、大きなカラスが、始終、止まっている。同じカラスかどうかはわからない。巣のなかには入らず、いつも巣の近くにいる。

 巨樹の落葉とともに現れた巣が古いものだというのはひと目でわかる。カラスの生態を解説した本によると、巣は寝ぐらではなく、あくまでも産卵と子育てに使うのだという。

 しかも、産卵のたびに新調し、使いまわしはしないそうだ。ならば、このカラスは、撃ち捨てられたはずの巣の近くになんのために止まっているのだろう。

 カラスたちが古い巣は使わないという習性を知らなかったなら、寝起き直後のカラスがいるとか、子育ての季節が近いから産卵の場所を下見にきているのだろうなどと思っただろう。

 近所にはカラスが多い。このカラスも、たまたま翼を休めるためにイチョウの枝に止まっているのかもしれない。しかし、それならば、なぜ、いつも古い巣の近くに止まるのだろうか。ほかに枝はいくらでもある。

 ぼくの目には、このカラスが古い巣へ、彼女(なんとなくメスのカラスに思えてしまう)なりの思い入れがあるとしか思えないのである。

 カラスだからといって侮ってはならない。彼らは本能や習性だけで行動しているわけではないのである。性格は個体によっていろいろだ。度胸のあるヤツもいるし、惰弱なほど警戒心の強いヤツもいる。働きものもいれば、怠けものもいるのである。

 たとえば、自分たちのナワバリを守るのに積極的なヤツもいれば、ほかのカラスを威嚇はするけど、行動がともなわない手あいもいたりして、まるで人間を見るようだ。

 一方で、ぼくには郷土愛とか望郷の念が希薄である。恩人のひとりから、それは深い愛郷心を見せられて驚いたものだ。反対に、故郷を嫌い、近づこうとしない人も身近にいた。だが、その人ですら、実はふるさとを誇り、恩人に負けないくらいの愛惜を抱いていたのも知っている。

 自分が生まれ育った土地をなつかしみ、恋しがるのは、人間として当然だろう。もはや、面影すらないが、ぼくも自分が生まれ育った東京・杉並の一地域の牧歌的な風景はいまもなつかしい。

 数年前、1羽のムクドリが、毎年、春先にムクドリが営巣し、子育てしている二階の戸袋をじっと眺めているのを、犬の散歩で通りかかった朝、何日か続けて見ている。戸袋から巣立っていったひな鳥の1羽だろうと直感した。

 思い過ごしだろうか。鳥たちにはそんな感情などないといいきれるのか。「帰巣」という本能が、とりわけ強いヤツだっているかもしれない。渡り鳥たちが、星を見て長旅の進路を決めているとの説よりもはるかに真実味があるはずだ。

 朝、頻繁に見かけるこのカラスに関しては、ぼくなりのストーリーがある。彼女はこの巣を利用した母ガラスだろう。巣への記憶を絶ちがたいなんらかの事情が生じた。いまも、毎朝、その出来事を忍んでるのではないか……と。

 あまりにもカラスを擬人化していると冷笑されるかもしれない。だが、母性は種を超えて激烈だ。それに、ぼくはほかに理由が思い当たらないのである。

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