ことばを忘れていく恐怖
老いてからのひとり暮らしは、慣れてしまうと実に気楽である。だが、完全な世捨て人として生きているわけではない。世間というしがらみに、消極的ながらすがりついている。ときおり、ことばを発しなくてはならない場面が出てくる。
夫婦で生活していれば、常になんらかの会話があるはずだから、とっさにことばが出てこないとか、声が出せないなどという支障はないだろう。しかし、ひとり暮らしだと、年々、それが顕著になってくる。
とにかく、とっさにことばが出てこないのである。焦る。そうすると声も出ない。よけい焦る。そんなぶさまな姿をさらしたくないので、なるべく黙っている。かくして、ことば少なでおとなしい老人が誕生する。
ぼくは74歳のころ、突然、文字が書けなくなった。いま、積極的に文字を書く練習をしている。少しずつ改善の兆しがある。これは、紙と鉛筆さえあれば練習ができる。しかし、ことばだけは練習の方法がない。つまり、紙や筆記用具に代わる人間が相手になってくれなくてはどうにもならない。
一昨年の春までは12歳の老犬との生活だった。おしゃべりなぼくは、この老犬にしじゅう話しかけていた。答えは返ってこないが、老犬が、ぼくの顔を見ながら聞いてくれるだけでよかった。ひとり言とはまるで違う。とにかく、犬であっても相手がいたのである。
犬の死から、ひとり言さえ急激に少なくなった。ときたま、電話がかかってくると会話をするのが恐怖になる。たとえば、通販の案内でも断ることばが見つからない。相手のほうがあきれて、「興味ありませんか?」といってくれるので、「はい」と答えている始末だ。
ことばを声に出して発せられないと次にやってくるのが、ことばそのものを忘れていくという悲劇である。それを防ぐため、つまり、現在、記憶していることばを忘れないようにとの切実な理由からこのnoteとfacebookへ、毎日、駄文を投稿している。
なかなかテーマというか、ネタがなくて苦労している。家の中に逼塞していてはたちまちネタも枯渇してしまうので毎朝の散歩が欠かせない。
一時期、ブログに発信していたが、だれひとり反応してくれないので、かえって孤立感が募ってしまった。その点、このnoteは読んでくださった方から「スキ」が返ってくる。孤独な老人はほんとうにうれしい。
やはり、毎日、投稿しているfacebookは、「友達」の大半が知り合いだけに、「いいね」を強要しているような自分の投稿にうしろめたさを感じはじめている。それを指摘されないうちに、なんとかしたいと思っている。
noteもfacebookも、写真の添付を自分に義務づけている。そのため、散歩には安物のコンパクトカメラを持参する。構図を決めてシャッターを押すため、老いた感性でもなかなか新鮮である。
いまのぼくは、とにかくことばを忘却する恐怖とひたすら闘っている。noteで読んでくださった諸兄姉がくださる「スキ」がどれだけ励みになっているかはかり知れない。
なんだかおもねるようなシメになってしまった。だが、noteへ願いをかけているだけに、また、日を追ってことばを失いつつある年寄りだけに率直な真情である。
ぼくの駄文に「スキ」をくださる方々に、あらためてお礼を申し上げます。
ほんとうにありがとうございます。