徒然の記憶-3-
2025年を2週間ほど過ごしてわかったことがある。
僕はこの1年をかけて「ととのえたい」のだということを」。
よりフォーマルにいうならば、「整理したい」のだということを。
気になる保険の無料相談に行ってきた。
保険はあまり掛けたくない。親が勧めるので渋々良い商品はあるか探索中だ。説明を受けたものは事前に情報収集したとおり良い商品だと思ったが即決するほど気乗りしなかった。資料を受け取るつもりだったが"やっぱりいいや"と思い、その場を後にした。
その後、二郎系ラーメンを食べに行った。この店も気になっていたところだ、"全まし"というオプションで食した。本格的に"まし"を頼んだのは人生で初めてだった。高校生や大学生の頃は苦手だったのに、その時はなぜか美味しく感じた。
その後、もう一度保険のところへ資料を受け取りに行った。せっかく気になっていたなのに資料も受け取らないのは後々後悔しそうだったからだ。ニンニク臭いのは申し訳なさすぎるので、急遽コンビニで口臭対策のケア品を購入し、近くのお手洗いで歯を磨き、口臭スプレーをしてから向かった。
最後に、駅のホームに向かう前に買い物をした。
いずれの場所においても店員さんに「ニンニク臭くないですか、すみません、ラーメン食べちゃって……」と毎回言った。そんなことを逐一共有しないと申し訳ないと思う人口はこの世界で1%もいないと思う。紙の気持ちになれるヒトはそう多くないだろう。いずれの店員さんも「全然です」とさらっと仰った。その度に安堵したが、気遣いの可能性はある。口臭ケアしたとはいえ二郎系で"全まし"を食した後だからだ。
真偽がどうであれ、自分が相手に申し訳ないと思っていることを伝えるのは不必要なのかもしれないし、必要なのかもしれない。前者のように考えるのは、例えば僕が高齢で加齢臭がしているとして当の本人はそれがデフォルトだとするならば毎日会う人すべてに申し訳なさを伝えるのは、ありがた迷惑とも捉えられる。好きで付ける香水も同様に。"におい"は暗黙の了解で黙認されうることだと思われる。後者は自分なりの気遣いからそう思った。僕は自分の言動に保険をかけたいのかもしれない。
自分の言動に保険をかけようとするのは、
過去、現在、未来のことに対して、
"自分のなすことを周りに黙認されたい意思の顕れ"なのだろう。
それは"自尊心の欠如、あるいは承認欲求の発現により生じる"というのは些か押しつけがましい暴論だろうか。間違いないのは僕は心配性ということだ。
こんな時、私はこれまで読破した書籍から得た教訓を思い返す。
詳細は引用先を参照されたい。
僕のような自他ともに認める真面目かつ心配性のヒトは、内省と共感性の資質が高いが故にいらぬ心配や不安を抱えて生きがちだ。
相手を思いやる心は素晴らしい。善意による言動がどうであれ、結果は事実としてこの世界に黙認される。そうであれば、次に会う機会があれば同様に清い心でありたいという心構えが有効なのではないだろうか。