戦争 : オーディエンス
大学に入って、友人に誘われた何気無いサークルの新歓イベントで舞台に出会った。
いま、僕はその舞台やらダンスやらから発展して、芸術とかエンターテイメントとか、そういう世界にいる。もちろん全然有名じゃないけどね。
昨日はじめたnoteだけど、さっそく読んでくれた人がいて、いいねをしてくれる人がいた。
嬉しい反面、どこかこのnoteに対する観点が揺れた。
よく「ダンサー!?踊ってみて!」「役者ならどうやって話すの?」
って、日常のテクスチャーの中でそういうのを要求されることがある。
できるに越したことはないし、別にそこで
「イヤアそうやすやすと見せれないカラぁ」とかイキがるつもりもないし、
それは最高にださい。
そこに有る無しなのは「舞台」であり「オーディエンス」だ。
舞台に立つ時、少なからず僕は「舞台」という世界にトランスする。
袖の暗幕の手前と先は、全く別の世界で、全く別の人間になる。
そこに僕は快感を覚えるし、それがないと僕はダンサーにも役者にもなれえ無い。困ったもんだ。
稽古のときも同じ。自分のなかで「ツっ」っていう音と共に世界が変わる。自分が変わる。
noteの話に戻そう。
つまりけっきょくここだって舞台になってしまう、そこに「オーディエンス」が立ち現れることによって。
オーディエンスの存在を意識した瞬間に、
「いいものを書かなきゃ」「面白いものにしなきゃ」「気に入ってもらわなきゃ」そういうナマナマしいものが僕の中に湧き上がってしまう。
じゃあ日記をつけて誰にも公開しなければいいかと云わればそうではない。
舞台だって、けっきょくオーディエンスがいなければ成り立たない。
誰かにみてほしい、聞いてほしい、共感してほしい。それがあらゆる人間の根本的なとこにあると思う、それが自然的か社会的かはまた別の機会にするとして。
けど、よく見られよう、嫌われたくない、そういうナマっぽい人間の感情が自分のなかに垣間見えた瞬間に、それが自分の心や手元から離れて、別のところにいってしまう。
でもそんな自分の感覚を文字にして、広くて誰が見ているかもわからないネットという大海にぽっと投げ込むだけで、失いかけてた純粋な自分の手元に戻ってくる。
舞台もnoteも同じ、オーディエンスがいる前で自分をさらけ出すことで、
社会という「他人の感情」を配慮することで完成していたグループの中で失いかけていた自分ってものを取り戻していく試みであって、
他人を救うように自分を救っているんだと思う。
とかいって、いい感じの方向に話をもってこうとしている時点で、
そこに完全に自分を失った状態で締めようとしていることへのフラストレーションがはんぱじゃない。
ひとつ、この記事を読んでいただけることはめっちゃくちゃ嬉しいし、
もしいいと思ったらバンバンすきとかコメントをしてほしいと思います。
けど、それがくればくるほど僕がどんどんくそつまんなくなっていく気がしていて、それとの闘いにな・・・
いや闘いたくねー!!!!
この場所はいくらでも自分に優しくいれる場所でありたいー!!!!
戦争みたいだなって。自分のなかに巻き起こる感情と社会性の。
みんな戦争だよね、自分との、他の人との、社会との。
それがみんな当たり前にできるけど、僕にはできないだけかもしれないし、そこでまたみんなと比べてどっちがどうこっちがこう、って考えてる時点で、僕はもう戦争のなかに加わってしまっているんだろう。
だからこの戦争を生き抜いていくために僕たちが必要なのは、
自分を見つめているオーディエンスの存在、そしてその存在を真っ向から見つめ直し、自分に帰ってくる感情から逃げないこと。
それが悪い感情であったら、それを外に吐き出せばいい。吐き出すことは悪いことじゃない。その吐き出し方を見つける。文字なのか、語りなのか、表現なのか。
それが良い感情であったら、それを自分のなかで形にしよう。形にして残すことは誰も咎め無い。その形に仕方も見つける。踊るのか、笑うのか、走り回るのか。
自分の感情に素直になりましょうって話。