アート とは何か : ←恐怖
まずはっきり言っておくと、僕は自分のことを「アーティスト」だって思うことはできないし、じゃあなんだよ!って言われたら、
「芸術のことを考えるのが好きな人」
「芸術をもっと社会で有用に活用したい人」
「救いたい人」
最近の占いで「提唱者」ってでたので、そのワードがしっくりきてます。
芸術の考え方を提唱したいんです、たぶん。
そんな僕の目下の悩みはここです。
「アート っていう言葉を使うのが怖くて仕方ない」
アーティスト活動をしている人や、アートと全く関係ない人、
同じような問題意識をもって活動してる人、
どんなレベルでアートと関わってる人と話すにあたっても、
「アート」って言葉を使うときに、すごい気を遣わなきゃいけないっていうか、必ずそのあとに「アートはさ、いやまあアートって言葉の定義についてはまた別の機会として、」っていう注釈をつけないと使えないくらい、
もう、なに、アートって言いたくない!!めっちゃ言ってるけど。
ただ純粋に怖い。
なんで怖いのか、わからないからここに書いてる。
僕なりの「アート であるかないか問題」についての一応の答えは、
別にアートであるかないかはいいんです。そこを議論することで生まれるものってもう出尽くした感あると思うんです。
まあそこに関して、僕なりの感覚でいうと、アートはそうであるかないかの定義ではなくて、そう感じるかどうかだと思うんです。美味しいか美味しくないかに近いっていうか、主観的っていうか、ああ言葉不足。
(某先輩とのLINEより引用)
いやそこじゃないんだよ。
アートであるかないかの議論は何も産まないって個人的には思う。
アートに対する姿勢、表現に対する考え方、
けっきょくアートであるかないかの議論は、アウトプットである表現への議論である以前に、より内省的なところでもってなされるべきだと思うんだよね。
こないだ六本木の路上で10時間語り尽くしたアーティストの人が言ってたけど
「アートは、自分の見えてる世界を人に伝える手段。」
それ!!!!ほんとにそれ!!!!
(文字おっきくする機能を見つけてはしゃいでる。)
だから、それがアートであるかどうかの議論って、
日本人がサウジアラビア語を言語じゃない!って批判したり、
英語は言語なのかそうじゃないのか、っていう議論してるレベルの話だと思うんです。
だからこそオナニープレイなアートは倦厭されてしまうんだよね、俺、オナニーしてますって伝えられるとすっごい嫌でしょ?
「アートは世界に、社会にこそ開かれるべき存在である。」
って社説をどこかで読んだけど、それってそういうことなのかなって。
アートを言語的に捉える。ってどこかの学者さんが提唱してそう、なんかないかなそういう本。
という盛大な脱線を経て戻ってくるのは、
「アート という言葉への恐怖」
そう簡単に使えないこの感じ。
絶対チームラボの力も大きいと思うんだよね・・・
まだ行ってないから良いとも悪いとも絶対に言わないけど、
海外のアーティスト界隈でものすごい議論になってるみたいです。
Japanese Art なんて言葉もでてきちゃったりして。
この恐怖の正体がわかる日がくるのか、
この恐怖から逃れられる日はくるのか。
要するに「アート」って文字と音の響きが万能になりすぎちゃって、
懐が広すぎちゃって、ってことなのかな。
なんかちげーな。
そんな僕がこの怖さを言葉にしようと思ったきっかけはこの動画です↓
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野性爆弾くっきーは個人的に大好きです。バーニングマンも好き。
だからこの、メディアの中にハマってる感じなのか、
TV画面にハマってる感じなのか、
単純に怖いなーって思ったのはそこなんだろうか?
コメント欄の
「体型がアートだなー」
もめっちゃくちゃ怖い。やめて・・・。
仕事に戻ります。