「結」 ー Work ⓪ ー Uzumakism
「バンクシー」
朝起きたら我が家の塀にバンクシーっぽい落描きが描かれていた。
隣の家の塀を指差している人物画だ。
「あんにゃろー、やりやがったな!」
腹が立つので絵の人物に猫耳と尻尾を足してやる。描き描き、と。
それを見ていた隣家のおばはんが「勿体ない」と吐かす。
やかましい、ここは俺の家だ。
翌朝、おばはんの家の塀にも落書きが現れた。
おばはんは「バンクシーの絵だ!」と大層喜んだ。
さらに翌日、こっそり猫耳と尾っぽを足してやった。
塀の落書きが猫になっているのに腹を立てたおばはんが我が家に殴り込んできた。
「あんたの仕業ね!大事な絵になんて事をしてくれたんだ!器物損壊で訴えてやる!」
「器物とはバンクシーの絵かそれとも塀のことかい?」と質問するとおばはんは顔を真っ赤にして怒り狂った。
裁判が始まったが争点はいつの間にかこの絵がバンクシーの物か否かに変わってしまった。
終いには全世界でこの騒動がニュースになる。馬鹿げた話だ。
この騒動の中、おばはんの隣家の塀にも落書きが現れた。今度はしっかり猫耳と尻尾を付けた姿で。まさか、俺が秘かに気になっている美人な人妻の家の塀にまで落描きが現れるなんて…
絵の中の人物は物言いた気におばはんの家の塀を指差している。
自称専門家が絵の解釈をワイドショーで宣う、「指差した家の絵はバンクシーの絵ではないと訴えている」と。
おばはんは反論する、「猫耳と尻尾以外はバンクシーの絵なの。間違いないの。だから私は隣人を訴えているの」
こいつは一体何を言っているのだ、アホなのか。いや、きっとアホなの。
騒動を見かねた我が家のヤツが、おばはんと人妻の家に謝罪文を書いてポストに投げ入れたらしい。何て書いたのか聞いたらこう答えた。
「大変ご迷惑おかけしております。実は落猫きは4歳のコの仕業です。申し訳御座いません。今度からは、人さまの家に落猫きしないように注意しますので、どうかお許し下さい。」と。
少し聞き取りにくかったが、まぁ悪くない謝罪文だろう。家のヤツは喋るのは余り得意じゃない。だから手紙にしたのだろう。
あくる日、意中の人妻から優しいお言葉を頂戴した。
「あらあら、仕方ない事ですわね。お子様がした事なら許して上げましょう」
人の出来た人妻は加えて、「奥さまはとても達筆ですね」と筆遣いを褒めてくれた。
なるほど、そんなにアイツは筆遣いが上手いのか。そう言えば、アイツの絵は見た事あるが字は見た事ないな。
人妻の言葉に、隣のおばはんも渋々同意して裁判は中止となった。
今では3匹の猫がお互いを指差しながら3件の家の塀に並んでいる。
一体どれがバンクシーの絵で、どれがそうでないのかは、バンクシーと俺、それから我が家のヤツ以外には分からない。
アイツが手紙を書いたテーブルの上に“ネ”が落ちていた。良く分からないが拾って大事にしておこう。
それより、俺には嫁も子供もいないと明るみに出る前に引っ越しをしなくては…。
今更我が家の猫が描いた絵と書いた手紙だなんて言える訳が無い。
それまで絵の作者と手紙の差出人…じゃない差出猫がバレない事を願っているのニャ
逆バンクシー・スタイル_yscnabSM
控えめに言って私はバンクシーが大嫌いだ、今は大嫌いだ。こんな事言うときっと、彼を大好きな人からは叩かれるだろう。
“むしょく”如きが宣いやがって。彼の方が芸術家の経験が長いし、お前なんかが批評出来るアーティストじゃないんだ。お前なんて自称絵描きの売れない画家風情だろ?、と。
違う、絵描きではない。私は“むしょく”だ。だけど、バンクシーを批評する。
他人の敷地に入り込んでステンシルみたいなパロディー作品を落描きする。立派な犯罪だ。犯罪に立派もへったくれもない。誤解されそうなので言って置くが私だってパロディーは大好きだ。問題はキャンバスを何処にするかだ。他人が一生懸命作った物に許可なく落描きをして、それを見た大の大人達が持て囃す。終いには似た落描きが街の片隅にあると「バンクシーの絵だ!」と騒いで行政まで本気で保存を検討し出すのだ。バンクシーを嫌いな奴らも払ってる税金を使ってね。
その癖、ヤンキーが街に描いた落描きは芸術として認めないのだ。「そこには訴えかける物語がないから…」なんて言って、訴えかけない絵しか描けない奴を訴えて裁判にかけるのだ。
違うね、物語を見ようとしないからだ。結局の所、見る側が勝手に価値を決めて批評するのだ。だから、私も彼を批評する。みんながやっている事だ。私の絵もそうしてくれればイイ。デッサンが狂ってるとか、色使いに問題があるとか、コイツに才能なんかないとか…所詮“むしょく”の落描きにしのごの言った所で“しょーもな”である。
一応、一言断って置く。ヤンキーが無許可で街中にする落描きを私は擁護している訳では無い。誰かだけを特別扱いする、そんなのはまさに道徳の崩壊である。平等に批評し批判し、そして裁くべきなのだ。
ここまで読んでくれたバンクシー好きには私のメッセージを送る。
最後まで読んだら「エエことがある。エエことが起きるんや」
批評か批判か分からない独り言を続けようではないか。
件のオークションを見て彼はほくそ笑んだだろう。落札と同時にシュレッダーにかける。「お金なんて物は紙屑だ」或いは「お金は簡単に作り出せる」と言うメッセージかも知れない。そこは同意しよう。「そんなメッセージはない」とバンクシーに言われそうだが。
シュレッダー屑にまで「価値」が与えられるのだから、人間の愚かさの極みを見た気分で面白くて仕方がないだろう。まさに彼は「通貨発行権」を手にしたのだ。
私の「通貨発行権」も是非行使してみたい物だ。
“むしょく”の私が誰かに自分の絵を渡す時「これは未完成です」と説明している。
受け取った方やその人の大事な人が私の絵に“楽描き”を加えてくれる事で少しずつ「完成」に向かって行く。“楽描き”の方法は様々だ。
本当に落描きをしてもイイし、写真を貼ってもイイ。押し花をするのもイイし、穴を開けてもイイね。折角穴を開けるなら、時計仕掛けを仕込んで壁掛け時計にするのも悪くない。カビが生えるまで押し入れに閉じ込めるなんてのもアリだ。カビがイイ感じで落描きを加えてモネっぽい絵にしてくれるはずだ。
真っ黒に塗ってくれてもイイ。「見えない作品が隠れている」と言う現代芸術になるだろう。或いはバッキバキに破壊するのもイイし、破壊したクズを組み合わせて立体造形をCOOLに完成させれば今流行りのサステナブルなアートに仕上がるさ。燃やして灰にしてしまうのも乙な物だ。燃やした灰を水に溶かして、その黒い水で絵を描けば更にGOOD。そうしてもう一度燃やすのだ。
その代わり物質的なこの世界から「作品」が消える前に写真に収める事をお勧めする。それもデジタルが良いだろう。「この世にはもう存在しない、幻の“楽描き”を捉えた写真」として、それがネットの世界を彷徨うのだ。初めてアップロードされたデータはとてつも無い価値になるかも知れない。
折れたり、汚れたり、カビが生えたり、穴が空いたり、燃えて灰になったり、何度も灰になったり、デジタル世界を放浪したり…。そうやって永遠の「未完成」の輪廻転生を私の絵は繰り返す。
「だから、私の絵は大事にしないで」とみんなに伝えている。芸術は死なないのだ。
いつか、私の絵を見たバンクシーが「これに“楽描き”をしてやろう」と思ったら最高だ。
きっと私は彼を大好きになるだろう。その絵は彼が描き加えたから価値が出たのか、彼に私が描く場所を提供したから価値が出たのか、境界線は曖昧になる。境界線を越えたり、越えさせたり、水や風の様に形なく流れ、それを上手くコントロール出来れば、この世界をバンクシーの様に自由に生きて行ける。
世界をキャンバスにして“落描き”をしていたバンクシーが、私のキャンバスの中に“楽描き”したら、私は彼を“私の世界”に閉じ込めた事になる。誰も正体を掴め無いバンクシーを“とっつぁん”の様に捕まえるのだ。「待てぇ〜い。バンクシー。逃がさんぞぉー!」
そうやって多元的宇宙が永遠の「未完成」の中で「完成」に向かって行くのだ。
“むしょく”の絵はエネルギーを集める“渦巻き”をイメージして描かれた「Uzumakism」作品であると同時に、他人に私の絵に“楽描き”して貰う「Yscnabsm」作品である。
即ち、他人の物に落描きするバンクシーのパロディーとしての「逆バンクシー・スタイル」だ。バンクシーを小さくしてSM女王さまの鞭でペチペチやるのだ。もちろんアメも忘れない。
バンクシーと言う存在がこの世にいて、沢山の作品を世界にばら撒いて、彼の存在を私が知れたからこそ、「逆バンクシー・スタイル」などと言えるのだ。君の中に僕がいて、僕の中に君がいる。兎に角この世はマトリョーシカの様なマトリックスなのだ。
ん?これでは彼の落描き行為を私が擁護した事にならないか?
あれま、駄文を書いている内にバンクシーをすっかり大好きになっているではないか(笑)
でも、私は彼の絵より、4歳児の頃に“小さな画伯”が描いた絵の方が最高に素敵だ!と心底思っている。
彼女自身が「未完成」の「この世に二つとしてない作品」だからだ。
最高の”楽ガキ“だ。おっと、失礼“楽描き”だ。
恐らくバンクシーを好きな人はこの最後の文まで到達する事なく、「お前の絵と一緒でくだらい文章だ。チラシの裏にでも書いとけ」と思ってる事だろう。
くだらないに決まってるだろ?
“むしょく”の駄文なんだから。
最後まで駄文に付き合ってくれた、バンクシーを好きな人もバンクシーを嫌いな人も私は大好きだ。何故なら好きや嫌いがあって、他人がいるから境界線を感じられて、時に境界線を越えたり越えさせてくれるから、私は私を認識し、自分の個性を受け入れられるからだ。そうして他人の個性も受け入れられれば私は自分も他人ももっと愛せるだろう。
そして、「愛」を全ての人々で分かち合えれば、みんなが結ばれて繋がって行くのだ。
さて、この文章には“描”と書くべきところに、“猫”が2匹紛れ込んでいるようだ。
幸運のネコを是非捕まえて欲しい。血眼になって探して見つけたみんなには…
「エエことがある。エエことが起きるんや」
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hidenori.yamauchi
私の伯父「山内秀德」の遺作を投稿しています。是非ご覧ください。