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伊勢遺跡を誕生させた 2000年前の巨大地震 科学編(前編)
この「伊勢遺跡の謎に迫る」のシリーズで、2000年前の巨大地震が
伊勢遺跡の誕生につながった、との自説を展開しました。
・伊勢遺跡誕生物語
・円周配列祭殿は何のため
また、この巨大地震の前後で大きな社会変化があったことも簡単に
述べました。
今回は、2000年前の巨大地震の存在を示す科学的な根拠と、考古学的な
社会変動の具体的な説明をします。
前編は科学的な調査結果を、
後編は考古学的に分かっている実態の解説です。
概要
・九州~四国~近畿の太平洋岸近くにある池の津波堆積物の調査により、
2000年前に、過去7300年間で最大となる南海トラフ地震があった。
M(マグニチュード)9もしくはそれ以上で、数10mの津波が
引き起こされたと推定される
(2011年の東日本大震災と同等ないしそれ以上)
・和歌山県の橋杭岩周辺の巨礫の分布より、歴史上最大とされていた
1707年の宝永地震(M8.6)より数倍大きな地震があったことが
分かった
土層サンプルと対比すると、2000年前の地震がそれに当たる
・弥生中期又は約2000年前にびわ湖周辺の複数ヵ所でM7.5の地震が
確認されている。
上記の南海トラフ地震との関連は、連動地震又は前兆地震の
可能性がある。
[前兆地震:トラフ地震の前兆として起きる内陸直下地震]
2000年前の社会変動
後編で詳しく述べますが、概要を列挙します。
今から約2000年前の弥生中期末に、北九州から南関東にかけて大きな
社会変動が生じています。
・近畿の環濠集落の終焉 大拠点集落は解体し小さな集落に分散
・祭祀の形の大きな変化 青銅器祭祀が地域で大きく変わる
・銅鐸の埋納 各地で第1次の一斉埋納
・高地性集落の一斉出現 九州、瀬戸内、大阪湾で一斉・爆発的に
・瀬戸内海物流ルートから日本海物流ルートへの変化
野洲川デルタで見てみると
・環濠集落が一斉に解体する
・びわ湖畔の服部遺跡の大地が裂け河となる
・銅鐸祭祀が変貌する
・社会変動の後、巨大な祭祀空間 伊勢遺跡が出現する
弥生中期末に生じた大きな社会変化の起因について、いろいろな見解が述べられており、主として地政力学的な観点から説明されています。
①九州勢力の東進に伴う社会的な緊張(寺沢薫氏)
②鉄の流通による社会勢力のバランス崩れ(福永伸哉氏)
これらの説は、その時点までに既知の歴史的事実でもって説明付けようと
するものです。
最近、異常気候の科学的な推定や過去の巨大地震などの発生など
新しい歴史的事実が読み取れるようになってきました。
2000年前の南海トラフ地震
津波堆積物からわかるの南海トラフ地震
およそ2000年前、南海トラフの沈み込みによって起きた大地震で生じた
大津波の痕跡が、四国や九州、東海地方の三重県で見つかっています。
津波の痕跡は、高知大学と名古屋大学の研究グループの調査で見つかった
ものです。
海岸近くにある池には、津波とともに海の土砂・小石が運ばれ池の底に
積もります。
大きな津波ほど多くの土砂・小石を運びます。
池の底で採取した地層から、過去の大津波で海底などから運ばれたと
みられる砂の層が見つかり、この厚みから津波の規模が推定できるのです。
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高知大学岡村真氏らは海岸近くにある30数か所の池を調査し、そのレポート(科学 Feb.2012)に津波の詳細なデータが発表されています。
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海岸沿いの池から採集された地層サンプルは、約3500年分の堆積物と
なっています。
空中の塵や植物などの堆積物はキメの細かい泥(シルト)となるが、
津波により運ばれる砂礫は大きい粒となるので区別がつきます。
四国、九州、東海で見つかった津波による砂の層は、いずれもおよそ
2000年前の層が最も厚くなっており、300年余り前の「宝永地震」に
よる砂の層の数倍にもなっていました。
このことにより、これまで南海トラフで最大と考えられてきた
「宝永地震」の津波より規模が大きいと考えられることが分りました。
2000年前とは、丁度弥生時代中期末に当たります。
この雑誌に論文が掲載された後も、池の地層のサンプリングが
続いていました。
2015年には、7300年分の地層のデータが収集され、
・2000年前の津波が過去最大である
・三重県側でも大きな津波の跡が観察され、南海トラフ東側も
連動していた可能性
などが明らかになりました。
地震の強度・規模
2000年前の地震はM9またはそれ以上と推定できる
上で述べたことは津波の大きさであって地震の規模(強度)では
ありません。
東日本大震災が起きるまでは、1707年の宝永地震が歴史上の最大地震と
されていました。
・宝永地震の推定強度がM8.6(東日本大震災はM9.0)
・2000年前の巨大地震による津波は、宝永地震の数倍(津波による
砂層厚み)あり、地震強度は、東日本大震災と同等のM9かそれ以上
だったと考えられる
・上記以降に、三重県でも大きな津波の痕跡が見つかっており、
南海地震と東南海地震が連動していたと思われる
注: 南海トラフのズレで、近畿四国地方で生じる地震が
「南海地震」
東海地方で生じる地震が「東南海地震」
同時に発生することもあるが、発生年差がある場合もある
・高知大学はその後も池の地層サンプルを7300年分採集し、宝永地震
クラスの巨大津波が6回あったが、2000年前の地震が最大である
・因みに、関東大震災 M7.9 阪神淡路大震災 M7.2
大津波の規模
2000年前の津波、30数m~それ以上の大津波と推定される
2000年前、どの程度の津波が押し寄せたのでしょうか?
・地震予測シミュレーションでは、南海トラフによるM9レベルの
巨大地震が生じたら30数mの津波が起きると予測されている
・東日本大震災では、地域によって違いがあるが、福島県で21mの
津波を観測(防波堤、波消しブロックなど整備されている環境下)
・明治三陸地震(M8.2)では、38mの津波
津波の遡上高(陸上を駆け上がる高さ)
2000年前の地震では、海岸沿いで50~60mの津波遡上があったのでは
・東日本大震災では、43m(防波堤などあり)の遡上
・1771年に石垣島・西表島(M8.2)を襲った大津波では、波が60mも朔上
大きな余震があった
本震並みの大きな余震が1回、それより小さい余震が2回あったもよう
(土佐市蟹ヶ池に届く津波)
地層サンプルをよく見ると、大津波で運ばれた海砂の砂層と砂層の間に、
塵や植物などの堆積によるシルト層が存在します。
この期間は池は穏やかな状態(大きい余震はない)で、その後に続く
津波を伴う砂層の存在は大きな余震があったことを推定させます。
蟹ヶ池に海砂を運ぶような本震①とそれに続く余震②③④があった
ようです。
ただす池と蟹ヶ池では地形や海との距離が違うものの、同じ傾向を
示しています。
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1300年前の津波と2000年前の津波の間のシルト層の長さと
本震①と余震②の間のシルト層の厚みを比例計算すると、
大きな余震②は本震①の60年後くらいに生じたことになります。
和歌山県沿岸の巨岩から分かる南海トラフ地震
産業技術総合研究所は、和歌山県串本町にある名勝橋杭岩の周辺の
地質痕跡から、南海トラフ沿いで
過去最大となる1707年宝永地震の津波よりも大きな津波がこの地域に来襲したことを解明しました。
海岸に一直線に並んだ巨岩列で知られる橋杭岩の周辺には、多数の巨礫が
散らばっており、橋杭岩から分離して周囲に移動したものと考えられます。
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巨礫移動のメカニズム
巨礫は橋杭岩から分離して落下
↓
橋杭岩の西側は平地のため、落下すると周辺に集積するはず
↓
しかし巨礫は西側にばらまかれるように分布
↓
ということは、過去に津波や高潮により運ばれた
↓
現地調査と津波計算から、宝永地震津波より大きな津波が来襲
津波の大きさの推定
1707年の宝永地震はM8.6と推定されており、シミュレーション結果では、
その規模の地震の津波では運ばれない巨礫が多くあることが判明。
地震規模を2倍にしたM8.8のシミュレーションではすべての巨礫が動いた。
前節で解説した「津波堆積物」で、2000年前にM9程度の地震があった
ことが分かっています。
この時、宝永地震の津波を超える大きな津波がかつてこの地を来襲し、
巨礫を動かしたことを意味しています。
びわ湖周辺の大地震
約2000年前に起きたと想定されるもう一つの地震について述べます。
びわ湖周辺には多くの遺跡がありますが、液状化現象に伴う噴砂や
断層などの地震跡が縄文時代から江戸時代までの時期で見つかっています。
特に弥生時代中期には、びわ湖周辺の湖底や湖岸など広域にわたって
M7.5クラスの地震跡が見つかったという発掘調査報告があります。
「弥生中期」という年代表記と「約2000年前」と記述があって、
時期の整合性の問題があります。
[Wikipediaでは弥生時代の不明時期と記載されている]
これについては;
①近年、暦年換算が揺れ動いたこともあり、「約2000年前」との記述が
正しければ、上の南海地震とほぼ同時期にあたります。
②防災科学研究所のレポートでは、南海トラフ地震前に内陸地震が
増加する傾向があるとされており、びわ湖のM7.5の群発地震は、
2000年前の巨大地震の前兆となる「弥生中期」の内陸地震という
可能性もあります。
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1944年の南海トラフ地震では、2年後の余震の方が大きい
内陸部で前兆地震が頻発、びわ湖岸でも大地震が発生
阪神淡路大震災の時の揺れはM7.3でしたから、びわ湖のM7.5の
群発地震は、揺れの大きさが想像できます。
南海地震と連動した地震なのか、前兆となる地震なのかわかりませんが、
2000年前ごろに野洲川下流域の弥生集落を揺り動かす大地震が起きて
いました。
総まとめ
約2000戦年前、弥生中期の末期にM9もしくそれ以上の地震が
あったことが、
・海岸近くの池の津波堆積物から証明された
南海地震と東南海地震が連動していた可能性がある
・本震の数10年後、本震並みの余震があった
・和歌山県の橋杭岩周辺の巨礫のちらばりは、宝永地震(M8.6)の
津波では生ぜずM8.8以上の地震では生じる
2000年前の地震を間接的に証明している
・南海地震との関連は不詳ながら、約2000年前又は直前に
びわ湖周辺で大地震があった
後編では、2000年前の巨大地震で生じた社会変動の具体例を紹介します