伊勢遺跡は双子の祭場 ~伊勢神宮の祖型か~ ②
前回は、伊勢遺跡と下鈎遺跡が双子の祭場であると述べました。
今回は、伊勢神宮との相似性について推理します。
伊勢・下鈎遺跡の祭祀の形
双子の祭場、伊勢遺跡と下鈎遺跡の2つの遺跡が、伊勢神宮の内宮
と外宮の2つの祭域に相当することになります。
では、どちらの遺跡が内宮・外宮に対応するのでしょうか?
そのためには、2つの遺跡での祭祀の形を見ていきましょう。
祭祀の形は、次の観点で考察します。
・祭祀用の施設 - 水にまつわる装置・施設
(ここでは祭殿は除く)
・祭祀で供献された品物
1.伊勢遺跡の祭場と祭祀の形
伊勢遺跡の祭祀域は、円周上建物の外側にも広がっています。
円周配列の祭殿と同心円状に水路があり、東側には大溝が掘られています。
野洲川デルタの弥生遺跡では、川・水辺・溝・井戸などで祭祀が行われ、
供献物が水の中に収められていました。
伊勢遺跡でも水路・溝などをしらべたら祭祀の品物が見つかりそうです。
①祭場
建物群から分かるように、中央部の方形区画と円周配列祭殿群の2つに
大きく分かれます。祭域の西側(現在の集落部)周辺には、人々の住居
や生活の場が広がっていたが、祭祀域には住居は一つもありません。
②水の祭祀場
【導水施設】
上の地図の左下に導水施設が設けられています。祭祀に使う清らかで
聖なる水を得る装置です。
ここは祭殿域からは離れた、人目に付かない場所です。
人には見せられない秘めやかな儀式で使う「水」を採取していたので
しょう。
【井戸】
井戸が3か所で見つかっています。 2基は流路のそばに設けられて
います。
他の1基は中央部の楼観の東西方向に、主殿とは対称的な所にあり
ます。位置関係にも意味がありそうです。
井戸の大きさは直径約2mで、唐古鍵遺跡の大井戸と同程度です。
井戸の中に遺物は見られず、祭祀に使う水を得ていたと考えられます。
人目に付く場所であり、見せるための「水」であったのでしょう。
③供献物
祭祀域の土地からの出土物はありません。
中央部祭祀域と円周配列の祭殿群でも違いはなく同じ状況です。
供献物を用いないか、あるいは使った供献物はしっかり持ち帰るか、
だったのでしょう。
供献物だけではなく廃棄物・ゴミなどもなく、生活臭がありません。
他の遺跡とは大きく異なる伊勢遺跡の特徴です。
ちなみに、祭域の西側には人々の生活の場があり、このあたりの
川岸からは多量の土器が出土しています。
④祭祀の形
出土する供献物がないので祭祀の形は推測のしようがないが、ゴミ一つ
残さない「聖なる区域」であったことに間違いないでしょう。
聖なる祭祀あるいは秘儀が行われていたと考えられます。
ここでは、方形区画での祭祀と円周配列祭殿の祭祀の違いについては
触れないでおきます。
2.下鈎遺跡の祭場と祭祀の形
下鈎遺跡の祭祀域は、南北の2つのエリアに分かれています。
①祭場
北祭祀域は西側にも広がっているようですが、まだ発掘されていま
せん。
南祭祀域には大型建物が東西に分かれて配置されています。その間には
掘立柱建物や門柱が並んでおり、祭祀関連の附属施設と推定されます。
北祭祀域と南祭祀域の間に竪穴建物と掘立柱建物が数棟建っているが
数が小さく、祭祀関係者の居住域(社務所)かもしれません。
②水の祭祀場
【河川祭祀場】
南祭祀域の中央部に凹型に川が流れている箇所があり、ここが河川祭祀
場となっています。
他の川の流域からはほとんど土器・遺物が出ないのに、ここからは、
供献物と推定される驚くほどの土器と貴重な遺物が出てきます。
【水場遺構】
河川祭祀場の川から水を引出した水場があり、掘立柱の屋根が設けて
ありました。
水場遺構からは、土器の他、クルミや桃の核、木製品などが出て
います。
桃の核は、祭祀の重要な供物として用いられたと言われています。
③供献物
南祭祀域の川からの出土は土器類が多く、中には水中に整列配置して
ある土器群も見られます。
その他に、小型の青銅器製品、青銅器生産過程で出る残渣類、水銀朱を
製造する道具など、他の遺跡ではあまり見られない貴重な供献物が多く
出ています。
これらの供献物は、ここで青銅製品の生産、水銀朱の製造を行っていた
ことを示唆していると同時に、高価で貴重な品を供物としていたよう
です。
下鈎遺跡のホームページ(守山弥生遺跡研究会) で水辺の祭祀の
様子がご覧いただけます。
一方、北祭祀域は発掘範囲が狭いこともあるのですが、供献物は
ほとんど見られません。
④祭祀の形
供献物から見て、北祭祀域と南祭祀域での祭祀の形は違っているように
思えます。
南祭祀域は供献物の量の多さ、希少な種類の品物など、工業製品の生産
の成功、安定生産など、実利を願った祭祀のようです。
水場遺構のクルミや桃の核、木製品などは、河川祭祀とは異なる祀りを
行っていたのかも知れません。
北祭祀域の祭祀は、供献物はほとんど見られないことから伊勢遺跡に
似ています。
伊勢遺跡の心柱
伊勢遺跡の祭殿と伊勢神宮の正殿の関連性を特に伺わせるのが、伊勢遺跡
の祭殿の中心に設けられている「心柱」です。
心柱は側柱より二回りほど細く、棟柱を支えるほどの強度はなさそうで、
恐らく床までの高さだったと推測されます。
では、何の目的で設置されたのか?
理由は不明ですが、伊勢神宮の正殿の「心御柱(しんのみはしら)」が
ヒントになりそうです。
「心御柱」は正殿中央の床下の柱で、古くから神聖なものとされています。
伊勢遺跡の心柱は、祭殿にはあるものの主殿にはありません。
また、下鈎遺跡の祭殿にはありません。
他の遺跡の独立棟持柱建物にも見られないものです。
例外は、伊勢遺跡の廃絶後に引き継がれる下長遺跡の独立棟持柱建物には
心柱があります。
この状況より、心柱は特別な意味のあるものとして扱われたようです。
心柱の一点においても、伊勢遺跡と伊勢神宮の不思議なつながりが見られ
ます。
まとめ(個人的な見解)
①伊勢遺跡と下鈎遺跡は弥生時代後期に、1つのグランドデザインの下で
設計され同時並行的に造営された双子の祭場と考えられます。
②伊勢遺跡は、首長が聖なるクニ祀りを行っているようで、人の気配が
ありません。
③下鈎遺跡は、産業発展のための実利を願う祀りのようで、人の気配が
濃厚で、貴重な供物を捧げていました。
④建物だけでなく、祭祀のあり方を見てみると、伊勢神宮は、伊勢・下鈎
遺跡と「うり二つ」とは言わないが、とてもよく似ています。
伊勢遺跡は伊勢神社内宮のような存在であり、下鈎遺跡は外宮のよう
です。
⑤特に心柱の存在が伊勢遺跡と伊勢神宮の不思議なつながりを感じさせ
ます。
⑥伊勢・下鈎遺跡と伊勢神宮は、2世紀と7世紀の世紀ギャップがあり、
難しいところですが、両遺跡は「伊勢神宮の祖型?」と言えない
でしょうか。
出典
イラストは、NPO法人守山弥生遺跡研究会の画家中井純子さんの作品。
建物のCGはMKデザイン 小谷正澄さん又は栗東市教育委員会が著作者。
写真は守山市教育委員会の所有。
地図やその他の図はNPO法人守山弥生遺跡研究会のホームページから
引用。
次回は、「方形区画は、魏志倭人伝の「卑弥呼の居処」にピッタリ一致?」です。