ヘーゲル弁証法と唯物弁証法
ヘーゲル弁証法を理解する上で最も重要なキーワードがドイツ語の "aufheben" だ。"aufheben" は一般的には「破棄する」とか「取り消す」といったネガティブな意味と「保存する」とか「高める」といったポジティブな意味のある動詞だが、ヘーゲルは相反する二様の意味を有しているこの単語に「正(テーゼ)→反(アンチテーゼ)→合(ジンテーゼ)」と発展していく哲学的な意味を持たせた。すなわち絶対精神が内在する矛盾を克服しながらより高次のものへと自己を展開していく歴史的運動(弁証法的展開)を「止揚する」と表現したのだ。
本来弁証法とはそれまで正しいとされていたテーゼに矛盾が生じた場合それが全否定されるのではなくそれらを包含する新しい理論が打ち立てられることを説明するための方法論だ。例えばそれまでのニュートン力学では説明できない現象が生じたためにアインシュタインの相対性理論や量子力学が誕生した(この動きを"パラダイムシフト"と呼ぶ)。将来的にはこれらを包含する新しい理論(万物理論)の誕生が期待されている。このようなパラダイムシフトこそ弁証法的展開の具体例と言える。
しかしながらヘーゲルは弁証法を単なる純粋論理学に留めず絶対精神が自らを展開していく歴史的過程として捉えてしまったために神秘的かつ非常に難解な形而上哲学の罠に落ち込んでしまった。マルクスは絶対精神が自己展開していく過程を歴史と捉えたヘーゲルの弁証法を「悪しき形而上学」であると批判して、生産関係と生産手段との間で矛盾が生じるがために階級闘争を通してこの矛盾を止揚することによって最終的に共産主義社会の到来を歴史的必然とみなす唯物弁証法(弁証法的唯物論とも言う)を打ち立てた。唯物弁証法はフォイエルバッハの唯物論とヘーゲルの弁証法を統合した理論体系だ。
とはいえ、マルクスの弁証法はヘーゲルの「絶対精神」なるものを「生産関係と生産手段」に置き換えたに過ぎず、決して「科学的社会主義」などではなくむしろ「思弁的社会主義」と呼ぶべきものだ。すなわちヘーゲルもマルクスも本来”純粋論理学的思考手段”である弁証法を「実体の自己展開」に置き換える重大な誤謬を犯してしまっている。そしてマルクスおよびエンゲルスが思い描いた共産主義社会はついに到来せず社会主義の壮大なる実験は数限りない無数の悲劇を生み出していくことになる。
それではなぜヘーゲルが”純粋論理学的思考手段”である弁証法に絶対精神なるものを持ち込んだのかと言えば、ドイツ観念論哲学の祖とされるカントがイギリス経験論と大陸合理論をそれこそ"止揚"して新しい哲学体系(批判哲学)を打ち立てたにもかかわらず、結局人間は純粋理性では「モノ自体(ヘーゲルの言う絶対精神)」を捉えることはできず「実践理性」や「判断力」を通して間接的にしか「モノ自体」の存在を捉えることができないとするカントの批判哲学を乗り越えようとして自らが思弁の罠に嵌まってしまったのだ。
【補足】
ヘーゲルの弁証法で用いる「アウフヘーベン(止揚)」とは「絶対精神」が内在する矛盾を克服しながらより高次のものへと自己展開していく歴史的運動(弁証法的展開)を表現したものだ。
弁証法を「絶対精神が自らを展開していく歴史的過程」などと捉えることは難解な形而上学の罠に落ち込んでいるとも言えるが、本来「弁証法」とはそれまで正しいとされていたテーゼに矛盾が生じた場合それが全否定されるのではなくそれらを包含する新しい理論が打ち立てられることを説明するための方法論なのだ。
物理学を例に見てみよう。それまでのニュートン力学ではどうにも説明できない現象が生じたためにアインシュタインの相対性理論が誕生し、さらに量子力学が誕生した。このようなパラダイムの転換(=パラダイムシフト)こそ弁証法的展開すなわち「アウフヘーベン」の本来の意味なのだ。
論理学における「正→反→合」の弁証法的展開を絶対精神の自己実現過程と捉えたヘーゲルの弁証法も物質の弁証法的展開が上部構造を規定するとした唯物弁証法も共に頭中の論理展開であり現実世界がかように展開する訳ではない。とはいえ、弁証法が現実世界を説明するのに有用であることは論を待たない。
現実社会の動き、あるいは人間の歴史を弁証法的に説明すれば「正→反→合(=正)→反→合(=正)」すなわちテーゼとアンチテーゼの限りなき繰り返しであると言えよう。