概念化された存在とその実在性
虹の色の数や子供が描く太陽の色は文化圏によって異なる。東アジア文化圏の子供たちは太陽を赤色で描くが、欧米では黄色で描くのが一般的だ。太陽をよく見れば白っぽい黄色のようにも見えるが、夕日は赤っぽく見えるのでどちらが正しいわけでも間違っているわけでもない。太陽と言えば決まって真っ赤に描く東アジアの子供たちだって日中の太陽が本当に赤く見えているわけではない。東アジアの子供たちの眼にも欧米の子供たちの眼にも太陽自体は(若干の個人差はあるが)ほぼ同じ色に見えていながらそれを表現する色が異なってしまうのが「文化の違い」の面白いところだ。
「虹といえば7色」と思っている人が多いが、虹のスペクトルは連続しているので実は虹の色は10色と言っても20色と言ってもかまわないし、3色でも5色でも別に間違いではない。たまたま「虹は7色」と表現する言語文化圏が多いだけのことなのだ。文化圏によって虹の見え方が違っているわけではなくて先述の太陽の色の例と同じく、どの文化圏の人たちもほぼ同じように虹のスペクトルが見えていながら言語や文化によって色の分け方が異なっているのである。
もし私たちが外界(客観的存在者)を表現する言葉を持たなければ果たして虹はどのように見えるのだろうか。実はこの質問に答えるのはそう簡単ではない。なぜならば表現手段としての言葉がなければ、たとえ多くの色を識別する能力があっても「虹という概念」つまり虹自体が存在しないことになるからだ。現在地球上では私たち現生人類を除き高度な言語能力を有している生物は他に存在しない。たとえ言語がなくてもある程度のパターン認識アルゴリズムがあれば"彼ら"(言語を持たない生物)なりに外界を捉えることができるため生きていくためになんら支障を来すことはない。
しかしながら時間や空間を始めとする抽象的な概念を獲得できない"彼ら"には生きていくために最低限必要な本能的世界しか存在しない。"彼ら"には過去も未来も宇宙も存在しなければ死の観念さえも存在しないのだ。それでは言葉を有し、抽象的な思考能力を身に付けた私たち現生人類が当然実在していると確信している時空や私たちを取り巻く外界(客観的世界)が果たして本当に存在しているのかと言えば量子論的には必ずしもそうとは言えない。時間や空間並びに存在者の実在性は簡単に答えられない哲学上および現代物理学上の難問なのだ。
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