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カント哲学論考(実在論と反実在論)

私たちの周りには様々なモノに溢れていて普段それらがあたりまえのように存在すると思っている。それらの事物は私たちの存在に関係なく、あたかも”それ自体として存在”(=実在)しているかのようだ。普段私たちは「私たちの眼に映るモノの様態は実はあくまで私たちの脳が捉えている現象に過ぎず、あらゆる事物は脳(すなわち認識)を離れては存在できない」ということに気づいていない。

ドイツ観念論を確立したイマヌエル・カントは主著『純粋理性批判』の中で「対象が認識を規定するのではなく認識が対象を規定する」と述べて、これを自らコペルニクスの地動説に準えて「コペルニクス的転回」と称した。とはいえ、実はこのようなモノの見方や考え方は既にインドのウパニシャッド哲学や仏教思想においても詳細に論じられており、「コペルニクス的転回」という表現が適切かどうかは別として西洋思想史上においては確かにパラダイムシフトと言えるくらいのインパクトを与えたことは間違いない。

『純粋理性批判』では「私たちの認識対象それ自体、すなわちモノの本質は決して論理的に捉えることができない」としたが、『実践理性批判』において純粋理性によって捉えられない外界は私たちの存在を超えて「モノ自体」として存在しなければならないと要請した点でむしろ実体論的な流れを汲むウパニシャッド哲学の系譜に立つものであり、さらにはアインシュタインの物理学的世界観(実在論)に繋がる見方であるとも言える。さらに『判断力批判』においては「美」を通してモノ自体を感得できるとしている。

一方、「私たちを含めて私たちの周りに存在するあらゆる事物や事象、すなわち森羅万象(the universe)は移ろいゆく現象に過ぎず、それら現象を引き起こしている大元(実体)なるものが存在しているわけではない」とする仏教的世界観はニールス・ボーアの量子力学的世界観(反実在論)に相通じるものがある。

カントは「私たちが認識可能な対象物はすべて現象であるが、現象の背景にはその現象の基になっている実体的存在者すなわちモノ自体が存在するのではないか」と考えた。とはいえ、イギリス経験論と大陸合理論の止揚を試みていたカントは「神」とか「絶対者」のような存在者の存在を安易に認めることはできなかった。それで『純粋理性批判』でモノ自体の存在は人間の認識能力をもって決して捉えることはできないという結論を導いたのだが、『実践理性批判』で「私たちの倫理規範や道徳律を有効ならしめるには、たとえ純粋理性ではその存在を証明できなくてもモノ自体(叡智界)は実践的に要請されなければならない」とした。

そして『判断力批判』では純粋理性では捉えられないが実践理性で要請されるモノ自体は「美しい」とか「麗しい」といった感情を通して触れることができると考えた。すなわちカントは美とか崇高といった感情は自然界と叡智界を媒介している原理であり、自然界が「合目的的」に叡智界を志向しているときに湧き上がる感情であると考えたのだ。

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