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家具屋から、自ら挽いた国産そばを使う手打ち蕎麦屋に転身(1) そば教室の卒業生の店から、ミシュランの星を取った蕎麦屋も誕生                                                               

 こんにちは~。猛暑で秋の訪れが遅かった今年も、朝晩は寒く感じられるようになりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

 私のnoteでは花など植物の新品種を開発する育種家の皆さんを多く紹介してきましたが、今回は手打ち蕎麦屋の社長貝塚隆雄さんに語っていただいた記事を紹介させていただきます。今月は新そばが採れる時期ですし、年末には年越しそばも食べますからね。

 貝塚さんから話を聞いて文章を書いたのは、実は私が職場を退職した7年前だったんです。退職後に人に役立つことをしたいと思っていたときに知ったのが聞き書きでした。ボランティアグループの講習会で教わって、初めて行ったのがこの貝塚さんの聞き書きだったんです。
 
 ボランティアになった以上は、早く話し手になってもらおうと4~5人に頼んだものの、皆から「文字に書いてもらうようなことはしてきていない」と断られたときに、頭に浮かんだのが貝塚社長でした。蕎麦屋となって苦境を乗り越えた貴重な体験を持つ貝塚さんが、私の聞き書きの話し手第1号になってくれたことは、本当にラッキーだったと思っています。

 貝塚さんは、それまでの家具屋を廃業することになって、63歳という年齢で新たに手打ち蕎麦屋を開業されました。しかも、長年の商売人としての経験と知恵を持ち、時代の変遷を的確にとらえ、香りが強い国産の常陸秋そばを自ら製粉して打った蕎麦を提供し、更にプロのそば屋まで養成するそば教室も行うなど、思い描いた新たな蕎麦屋の姿を実現してこられました。

 そば教室の話を聞いて、蕎麦屋を開業したばかりの時から、プロを目指す生徒に蕎麦打ちの技術や蕎麦の知識等を教えてこられたことには本当に驚きました。店の雰囲気も素晴しいですよ。貝塚さん自らが設計した店は、アンティークな机や椅子が置かれる高級感あふれる店内で、ここなら誰もがゆったりとした気分でおいしいそばが食べられると思える店だと感じました。

 さて、前書きはこの位にしておきましょう。では、私が7年前に初めて書いた聞き書き作品である手打ち蕎麦屋「玄庵」の社長、貝塚隆雄さんの体験記事(1)です。近く投稿する(2)も含め、最後までお読みいただければ幸いです。
(記事の内容は、7年前に聞いた時点のものです)。
 
 

話し手  貝塚 隆雄さん

 
  京成立石の手打ち蕎麦屋「玄庵」
 
 うちの店は、最近、昭和の風情を残す商店街の町として紹介されている葛飾区立石の奥戸街道沿いにありましてね。平成8年まで家具屋だったんですけど、今はこのように「玄庵」という手打ち蕎麦屋をやっているんですよ。俺が社長をしているんですがね。
 自慢するわけじゃないですけどね。皆が、日頃食べに行く蕎麦屋とはずい
ぶん違いますよ。ええ、お客さんに「いらっしゃいませ」と言って、ただそばを出すだけの店じゃないですよ。どう違うかって?それを聞きにきたんでしょ。まあ、そう慌てずに、これから話すからさ。

 俺はね、「江戸東京そばの会」っていう名前でそば教室もやっていて、プロとして手打ちそば屋になろうとする人にも教えているんですよ。なぜ、このような商売を始めることになったのか、俺の生い立ちも含めて話すんで、少し時間がかかるかもしれませんけど、良かったら聞いてもらいたいですね。
 
  向島で米屋をしていた親父が立石に来て始めた道具屋
 
 時間は、平気ですか?ああ、良かった。じゃあ、耳を貸してくださいね。えーと、そうだな。ここはお客も来るから、むこうの個室にしましょう。さあ、ここに腰かけてください。こちらの方が落ち着くでしょ。
 じゃあ、始めさせてもらいますよ。今のこの場所には、昭和21年頃に移ったんです。戦争前には、立石(京成線)の駅のそばにいたんですね。その頃から、うちは家具屋をやってましたね。だから、家具屋は親父が始めて、その後をさ。俺が継いだのよね。おふくろの方は、松戸で代々呉服屋をしていたんですよ。俺の兄弟は、男3人、女2人の5人ですけど、呉服屋の方は、兄二人が継いだんですね。
俺の生まれは、物心がついたころは立石にいたから、俺自身は立石生まれだと思っているんだけどね。戸籍では向島なんだよ。うちのおやじは米屋だったんだよ。親戚も皆米屋でね。向島にいたころの話は、聞いたことがないんで良くわからないんだけどね。俺の代になるまでは、米の卸屋でかなり苦労したらしいんだよ。各地を転々として、向島に来て、それから立石に来て今の道具屋になったんだね。
家具屋の間違いじゃないかって。当時は家具屋って言っても、戦争の時だったから、新品の家具が店にそろわないのでさ。中古の家具や臼だとか木製の道具や骨董品などを置いて売ってたんですね。うちの店も、当時は道具屋の看板を出していたんですよ。
 
  店に出せば、古い家具でも買ってくれる人はいる
 
親父の兄貴も、三河島でずっと米屋だったんだけどね。親父が米屋をやめたのは、おそらく統制が厳しくなったから、やっていかれなくなったんじゃないかな。結局、戦時下で米は国が統制していて、自由販売ができなかったわけだから。

 家具屋は、呉服屋と比べると金がない人がやるんだよ。家具は、かさばるけど長く置けて腐らないでしょ。でも、呉服の方は高価な絹織物で、こおりの中に何百枚も入るし、売れ残ったら困るからね。そんな訳で、なかなか呉服屋はできないんですよ。

 家具は、売れる場所があるんだよ。おかしなもので、5年も店番しておいていて、古くなってしょうがないと思うものでも、そこに置くと売れちゃうんだよね。色が悪いと思うものでも、「これがいい」とかいう物好きな人がいるんだね。面白い商売なのよ。ある意味では、骨董品を買うみたいなもんなんだね。素人の人は、自分が一番目が利くと思ってんだよ。自分で判断しちゃうわけよ。面白いもんでね。
 
 ❒ 戦争で菓子屋に菓子がなく、遠足などはなかった小学・中学時代
 
 俺は、もう81歳になるんですよ。立石駅のそばから、今の場所に来たのは、俺が中学1年の時でしたね。空襲が激しくなったから、駅の回りは強制疎開になったんだね。駅が攻撃されてはいけないと、強制的に取られたっちゅうわけよ。疎開した人の中には、その後、立石に帰ってこない人も結構多かったのよ。

 小学生の頃の話をしましょうか。小学校は、今はこの辺の子は店の前の道を渡って左にある本田小学校に行くんですけどね、俺の頃は、少し離れた葛飾小学校に行ってました。葛飾小学校は、本田小学校の分校だったんですけど、人口が増えた四つ木の方の子が本田小学校の方に入ってきたんで、当時はここは葛飾小学校の地域だったんですよ。

 俺らの時代は、一番戦争の被害に遭った気がしているんですよ。小学校4年の頃は、お菓子屋に行ってもお菓子がなく、チョコレートなんて食べたことがなかったですね。兄貴の頃は、外套を着て京都や奈良に行く修学旅行があったんです。でも、俺たちの時は、歩き遠足とか言って、江戸川を超えて里見公園に行ったりした程度でね。中学を出るまで、一切遠足なんて経験ないのよ。
 
  新潟の上越市に疎開して戻ったら空襲に遭い、家族で松戸へ移る
 
 戦争が終わりに近づいた昭和19年9月1日、学童疎開で新潟県上越市の高田というところに行ったんです。疎開した生徒の中では、一番年長の小学校六年でしたね。他の学校では、ひどい疎開先もあったけれど、葛飾小学校は分校だったのにいいところでした。本田小学校も赤倉温泉でしたよ。

 高田は、新潟県でも長岡に次ぐ都市で、陸軍の大きな軍隊を持っていて、旅館がたっぷりあったんですね。でも、俺は甘ったれた生活していたから、疎開先が嫌になってすぐに帰ってきて、縁故疎開として親父の田舎の茨城県守谷に行ったんだけどね。そこも耐えられなくて、我が家に戻ったんだよ。そしたら、立石駅が空襲に遭ったでしょ。それで、我が家も強制疎開させられてね。松戸のおふくろの家に家族で移ったんですよ。
 
  戦時中でも、我が家は食べ物や着る物には不自由せずに過せる
 
 当時、小学校では、皆ズボンにはけつにもう1枚布を当てて、縫い付けていたのをはいてたけど、うちはそういう着る物や食べ物には不自由しなかったんだよ。まして、おふくろの実家は、松戸きっての大商人なんですよ。ですから、小作人が何人もいたんですね。

 ありがたかったことに、松戸は東京のすぐ隣なのに空襲なんて全然ないのよ。B29なんかが来てさ、東京が燃えているのが赤く見えてさ、毎日花火を見てるようなもんでしたよ。葛飾は、毎日が空襲でしたけどね。

 当時でも東京にいた時は、学校の給食があったんですよ。ええ。「戦時中に給食、そんなことないよ」という人が多いけど、あったんです。最初はご飯が出たんですけどね。1か月も続かないうちに、木曜を除いてコッペパンになったんです。うちは、戦争中もおじさんの家が米屋をやっていましたからね。そういう家庭だったから、食べ物には一切苦労してないんだよね。

 でも、上の2人の兄貴らは勤労動員で工場で働き、そんなには行ってないと思うけど、茨城まで買い出しに行ってたんだよね。親父の田舎の茨城の守谷は、流山から利根川を渡ったところですけど、昔はすごい田舎だったんですね。

 戦争中は、兄貴たちも姉も勤労動員で工場に行ってたから、家には人がほとんどいなかったですね。それで、家でてんぷらなんか作って食器棚に入れておくとね。たまに盗まれるのよ。なんだと思ったら、隣の家のせがれよ。「あっ、隣の家のあんちゃんが犯人だ」とわかったんだけどさ。うちとは違って、隣の家は食べるのが大変だったんだよね。
 
 ❒ 立石の空襲と東京大空襲
 
 立石が空襲されたのは、昭和二十年二月十九日だったんです。立石駅近くにあったうちの家の庭に、どこかの柱が飛んできたんですよ。そのときは、燃えている最中でしたけど、急いで葛飾小学校に行ったんですよ。

 学校の近くが襲撃されてさ。学校から今のシンフォニーヒルズ(公会堂)までが燃え、昼だったから死人は出なかったと思うんだけどさ。学校は半分が燃えちゃったんですね。

 葛飾区は低地だけど、防空壕も掘ってましたよ。でも、知識もないから土を盛った程度でね、あんなの屁の役にも立たないですよ。

 3月10日に東京大空襲があったでしょ。電話がないので、三河島の米屋と亀戸に住むおじさんの2人に連絡が取れないんだよ。それで、三河島のおじさんのところには俺が、亀戸のおじさんのところにはすぐ上の兄が消息の確認に歩いて行ったんだよね。三河島のおじさんの家は、焼けてなくて無事だったんだけど、亀戸のおじさんは行方不明でね。結局死んじゃったんですよ。

 亀戸の駅は、当時広場になっていて、たくさんの人が逃げ込んだんだけど、やられて大勢が犠牲になったんですね。立石からおじさんの家までには、何人もの死体をまたいで行きましたよ。その頃は、毎日飛行機が飛んできたんで、慣れちゃってね。なんとも思わなくなっちゃっうのね。
 
  空襲警報が鳴る中での小学校生活、兄弟五人が全員大学へ進学
 
 え、学校?その当時になると、学校へ行っても先生がやる気がないのよ。自分がいつ戦争に持って行かれるかわからないからさ。1か月で教わるのは、国語と算数位なんだよね。授業をやんないんだから。

 朝、登校して「おはよう」って言うと、もうそわそわしちゃうんだよね。そうすると、ポーってすぐ空襲警報が鳴るんだよ。そしたら家に帰らされるんだけど、学年下の子たちは要領が悪いんで、いったん帰ってから教室に給食のパンを取りに来るんだけど、俺は調子がいいから先にパンをもらっちゃってさ。そのパンを持って帰ったんだよ。とにかく、先生が先生をやる気がないんだよ。

 だから、俺の世代が一番学力がないんじゃないかっていつも思うのよ。小学校では、四年生位からそういうふうになったような気がするな。だから、小学校六年を終わると、仕事に行っちゃうやつも結構いてね、旧制中学に行ったのは、何人もいないんだよ。小学校の卒業があるから、六年の時に疎開から帰ってきたんだけどさ。東京大空襲があったから、小学校の卒業はうやむやになって終わっちゃったんだよね。

 当時は、大学へ行ったなんて人はほんのわずかなもんで、爆弾が落ちてくるとかいって、会社も無試験で入った時代だったんですよ。そんな時でしたけど、うちの親はリベラルな人でね。「勉強しろ」なんては言わなかったけど、男も女も関係なく5人の子供に全員大学を出させたんですよ。俺も、日大の経済学部を出てるんですよ。
 
  学童疎開先の新潟県の高田でスキーを覚える
 
 学童疎開に行った高田は、妙高高原のひざ元でね。雪深いところなんで、スキーを覚えたんですね。そこ出身で明治大学のスキーの選手だった板倉さんにお世話になり、スキーを教えてもらったんです。それから、30歳までは、山登りとスキーに夢中になっていましたね。

 東京に住んでたから、スキーをやったことなんか一度もありませんでしたけれどね。小学校五年生の時の国語の教科書に「勇気のなかった子が、スキーで思い切り滑ったら勇気が出た」という話が載っていたこともあって、スキーは憧れだったんですね。

 後になってからも、本田小学校の友達などと一緒に行こうという話になって、板倉さんを訪ねてお世話になってね。昭和24年、25年にも板倉さんの家に行くと、日本でも有名な板倉3兄弟がそろっていてね。毎年行くようになったんですよ。
 
  山に目覚めて山岳同志会に入り、多くの岩山に登る
 
 遠足も、俺らの時代はなかったでしょ。海水浴へは、千葉の谷津遊園とかは子供なりに行っているけど、山の経験はなかったんですよ。高校の頃、
本格的にスキーを初めて、その後は山に目覚めたんですね。登山の方は、初めて上高地に行ってね。そこから、「山ってこんなにいいものなのか」って、夢中になっちゃったのよ。

 上高地は夏山でね。河童橋のところでキャンプしたんですね。そのとき、アサヒカメラに、おいらキャンプ生活で撮られているんですよ。当時は、今みたいに観光化されてないから良かったですよ。

 最近は、マイカーでは行かれなくなっちゃったですからね。そのうちに呼ばれてね。世界のトップクライマーが入っている朝霧山岳会から別れた山学同志会に入ったのよ。岩登り専門の会でしたから、ほとんどの岩山にも登っているんですよ。

  スキーでは回転競技の選手として活躍

スキーでは、東京都の予選会を兼ねた葛飾区の大会に、25、26歳位から出場しましてね。俺は回転競技でさ。1年目はコースを外れて失敗しましたが、2年目と3年目は準優勝し、4年目には優勝できたんですよ。都の大会では、上位にはなれませんでしたけどね。

 葛飾区は強いんですよ。東京では1位ですから。東京で強いってことは、日本全国でも1位ということなんですね。亀有に三菱製紙の工場があったでしょ。あそこの人は、皆北海道の人だからね。北海道の選手が入っているんだから、強いの決まってるわけよね。でも、自分だけは、三菱製紙の人たちと対抗できたんですよ。

 そんなことで、30歳までは、山登りとスキーに夢中になってましたよ。親が文句を言わなかったって聞かれるけど、そりゃあ、親は文句を言うよ。でも、好きなことができるんでさあ。親がかりだから、甘えていたわけだよ。
 
  父の家具屋を継ぎ、結婚してから商売に精を出す
 
 仕事の方では、俺は親父の家具屋を継ぐことになったのね。上の兄にはおふくろの呉服屋をやらせ、2番目の兄には千住に呉服屋を作って手伝わせたから、俺は家具屋の跡継ぎになっちゃったんだよ。好んでいたわけじゃないけれどね、高校に行っている頃から、そういう風になっちゃったのよ。

 でも、俺は、どっちかというと、家具屋より呉服屋をやりたかったのよ。呉服なら、女の子も来るじゃない。呉服のことだってやってたからね、何でもわかりますよ。女の人のスカートは何メートルとか、和服だってわかりますよ。

 結婚は、30を過ぎてからじゃあって気持ちがあったからさ。30歳ごく手前で結婚したんだよ。スキーばかりやっても食えないしさあ。嫁さんをもらったらさ。商売しようと欲が出てきたのよ。皆が働いているときに、こっちは遊んでいたからさ。嫁さんをもらってから10年は、夢中で働いたと思うね。
 
  既製服が売れるようになり、呉服屋の商売が厳しくなる
 
 どちらかというと、呉服屋の方がやってみたいと思ってたんだけどね。呉服屋は仕入れも大変だし、金がかかるんですよ。でも、呉服は民族衣装なんでね、昔は良かったけれど、だんだん衰退していくじゃない。今は、着物なんて着る人もいないもんね。

 そして、結果的には家具屋の方が良くなったのよね。家具は、場所をとるからスペースがいるでしょ。不動産としてみても、そういうものの方が価値が高かったから、家具屋の方が資産が上だってなっちゃったんだよね。そうですねえ。昭和53年、54年頃から変わってきたと思いますね。

 呉服屋の商売は、和服だけでなく総合衣料でしたから、洋服も扱ってたんだけどさ。ヨーカ堂などのスーパーなんかの既製品の方が良くなっちゃったのね。その前は、各家庭でもミシンで仕立てようっていうムードだったでしょ。それが、皆出来合いの既製品が安くていいやっていう時代になっちゃって、どんどん逆転していったんだよね。大量消費の時代になっちゃったんですね。
 
  衣類が増え、収納する部屋・クローゼットを設置するようになる 
 
 でも、家具の方も、その後備え付けの物が主流になっていったんですね。そうなったのは、日本人の文化が足りないんですよ。そんな風になる必要はないんですね。建築会社がコンクリートの建物だけじゃ儲からないから、付加価値をつけるためにクローゼットだなんだっていうごまかしをやっているのを、日本人はそれが良い物だと思っちゃったのね。

 俺は、それは間違いなだと言うんだけどね。そう言って変わるならいいんだけどさ。そうねえ。やはり日本人は、文化が足りないんだね。ヨーロッパの人は、そんなことはしませんね。ただ、同じ家具でも、これだけ持ち物が多くなると、収納するスペースが大変でしょ。だから、クローゼットっていう1つの部屋を作って、向こう式のふすまで目隠ししただけですよ。

 昔は、台所にも茶箪笥を置いていましたよ。金があれば、そういう物を置いてもらいたいんですよね。マンションの備え付けの物に浸っている人は、文化のない人と金のない人なんですね。ちゃんとしている人は、家具を置いていると思いますよ。
 
  衣類が氾濫し、大量消費の時代となる
 
 しかし、衣類がこれだけ氾濫するようになったので、収納スペースがなくなっちゃったわけね。それで、なるべく早く捨てろっていう風になっちゃうんですよ。我々の世代の人は、なかなか捨てられないんですけどね。

 だから、改良リフォームがはやってきちゃったんですね。どれだけうまく昔の物を捨てられるかが、自分たちの暮らし方にとって重要になってきたんですね。しかし、うまく捨てることができても、男の子は嫁を貰ってほかに住むし、娘は嫁に行くでしょ。今度は狭い家が広くなっちゃうんですよね。

 うちなんかでも、子供は2人ですけど、せがれは世帯を持っているでしょ。娘は北海道に住んでいるでしょ。おふくろももういないから、2階なんかいらないんだよね。それで、おふくろの箪笥、前の女房の箪笥でしょ、それに加えて今の女房の箪笥もあってさ、いやいや、どうすんだって思うけどね。
 
  店から出て市川に自宅を構える
 
 そうそう、話してなかったですね。俺は、今住まいは市川なんですよ。立石の駅の近くから、昭和21年に今の店の場所に移ってね。その時は木造建築だったけど、昭和50年頃に4階建ての今のビルを建てたんですよ。それまでは、家族皆でここに住んでいたんだけどね。

 ビルにした時に、兄貴が「家族が一緒に住んでると、良い考えがひらめかないなんて言ったりしてさ、親父もちょうど市川に住みたいというわけよ。探していた時に、以前に道路の向かいにあった井上病院に勤めていた事務のおばちゃんが道具好きでね。市川のそのおばちゃんの家に道具を届けたら、「今度後妻として嫁に行く」って言うんだよ。「じゃあ、この場所はどうするのって聞いたら、「人に貸しちゃう」って言うから、「それならば俺に売んなよ」って言って引き取ったのよ。

 市川学園に通っていたし、母の家は松戸で近いこともあったからね。昭和四十八年に買ったのよ。親父の家具屋を継いだので、父母の面倒は俺が看ていたんですよ。
 
  兄は器や仏像、自分は家具、兄弟で骨董が好き
 
 また、別の話になるんですけどね。親父も兄貴も俺も、だいたい古い物、骨董が好きなんですよ。だから、そういう観点っていうのが、素養として備わっていると思うのね。それで、若いときに高田の方に疎開したもんだから、上田の池田さん、高田の井田さんという骨董屋と懇意になって、年中そこへ行って目を養っていたんですね。

 俺は、家具などの骨董が主でしたね。器は、まだ金がないから買えないんですよ。兄貴の方は、器や仏像が専門でしたよ。だから、兄貴は目が利くんですよ。俺が32か33歳の時だったですね。上田の池田さんで買った皿を、うちの兄が「これは確か宮之原謙の作だ」って言ったんですね。

 宮之原謙っていう人は、松戸の上本郷に住んでいたんですよ。松戸にも家具屋の店を持っていたから、そこから買った皿を持って、宮之原先生のところに行ったらさ。先生は、「陶芸家になって初めて作ったものだ」って言うんだよね。喜んでくれましたよ。
 
  兄は、呉服屋をやめて陶芸家になる
 
 その兄貴は、昭和58年に呉服屋をやめたんですよ。八千代台、お花茶屋、立石に支店を持ってたんだもの。悠々自適でね。好きな陶芸家になっちゃったんですよ。

 あれは昭和50年ごろだったですね。鎌ヶ谷に三橋英作っていう陶芸家がいたのよ。そこへ兄貴と二人で入門したんだよ。俺はすぐやめちゃったけどさ。もともと道具好きの一家なんだよ。俺は、素質ないと思ったからやめたけど、兄は続けていたんだね。

 その後、そばを教えてもらって打ったんだけど、粘土は力もいるし大変だけれど、そばは楽なんだよ。土をいじってたからね。初めてそばを練ったら、教えてくれた人より俺の方がうまかったもん。
 
  ペガサスクラブでチェーンストア学を学ぶ
 
 店の商売は、衣類を備え付けのクローゼットにしまったりする風潮になってきたんで、家具は売れなくなってきたんだけど、俺も欲深な人間でね。家具屋でどうしても商売しようって頑張ったんですよ。そうこうするうち、兄と一緒に、ヨーカ堂やダイエー等のチェーンストアを育てたペガサスクラブの会員に入って、そこで商売の勉強をしたんですよ。

 ペガサスクラブっていうのは、読売新聞の経営技術担当の渥美俊一という記者が、昭和37年に創設したチェーンストア経営の研究団体でさ。日本の流通革命、生活水準の向上を図るために、アメリカ視察などをして、アメリカのチェーンストア経営を日本に紹介したんですね。会員は千人以上いて、現在の有名なチェーンストアのトップも大半が入ってましたよ。そこで勉強したのが、皆今商売で稼いでのさばっている連中なんですよ。
 
  チェーン店の東京インテリアを作るも家具が売れなくなり、仲間で競
  い合って財テクに手を出す

 
 そのころには、うちも関東甲信越の20軒の家具屋で金を出し合って、草加に東京インテリアっていうチェーンを作って、20年以上卸の商売をやっていたんですね。家具は売れなくなってきていたけど、それからバブルになってきたでしょ。

 そしたら、そのチェーンを背負っていた春日部のSさん、世田谷のHさんと俺が、競り合っていろんな金儲けに手を出したわけよね。ほら、あの頃は、誰だって口を開けば、「財テク、財テク」って言ってたじゃないの。俺は、初めはしないつもりだったのよ。でも、同業者が皆手を出すもんだから、自分だけ取り残されたような気持になってね。途中から、やり始めることになっちゃったのよ。

 でも、それで結局失敗して、3人ともやられちゃったんだよ。春日部一の大尽だったSさんも飛んでなくなっちゃったんだよね。皆、不動産に手を出してさ。お互いにこっちも負けちゃいけないって頑張っちゃって、それで大借金しちゃうのよ。

 ペガサスクラブで教えてもらったとおりにやれば、成功したんですよ。でも、我々のような小さな商人は、人材がいないじゃない。そういう、行き詰っていっちゃうのよね。絶えず次の戦略を考えるっていうように、進歩的にできないんだよね。小さな商人のせがれだから、小銭を持って商売してるからさ。小銭がなくなっちゃって、借金だらけになって、つぶれたらどうしようなんて考えちゃうしさ。
 
  小売りがうまくいかなくなる中、利幅のある婚礼家具等の販売に力を
  入れる

 
 それに、ペガサスのとおりにやろうと思っていても、腹の中にある自分の思考が強くなっちゃうのよ。家具屋では、婚礼家具を売るのが一番利幅があるのね。だから、そっちに比重をかけすぎちゃったんですよ。家庭用品なんだから、小物にも力を入れてやっていけばいいのに、あまりにもこだわりすぎちゃったんだね。

 実は、バブルになる少し前だけど、商売をやめた兄に「おまえ、まだ家具屋をやってるのか」って言われたのよね。確かに小売が成り立たない時代になってきたじゃない。でも、家具屋は親の跡取りでやった商売でしょ。そう言われても困ったんだけど、その頃から多少考え方に変化が出てきたんですよ。俺自身も、いつかはやめないと、小売が成り立たないとは思っていたんですね。
 
  財テクに失敗
 
 ただ、まずいことに、それからバブルが来ちゃったのよね。昭和62、 63年になると、また売り上げが上がってきちゃったんでさ。元気になってきちゃうんだよ。あれがいけないんだよ。あれがね。バブルは、皆を財テク等に走らせたでしょ。銀行も悪いんだよね。「いくらでも金使ってくれ」って、電話一本で数千万も出しちゃう所もあったんですから。

 そういうわけで、いろんなのに手を出したのよ。ゴルフの会員権もね。一番高いのは、4千万、5千万もしてね。その売買をやったんですよ。だけどね。そんなことをしていたら、やっぱり欲が出てきちゃったのよ。

 そのうち家具が売れなくなってからは、不動産をやったんですね。建売までやってさ。結局は、それで失敗したんですね。売れないから、たたき売りするでしょ。数千万の建物を、半値で売っちゃったりすることもあるんですよ。だから大損しちゃうわけよね。自分としては、そんなにはなってはいないだろうと思うような借金になっていたんですよ。それも、たったの1年か2年のうちに、そうなっちゃったんですね。

 同業者の仲間も財テクに走るからさ。競争意識があって、負けまいと手を出しちゃったのよね。昭和40年代当時も不動産をやっていて、儲かってね。いったんやめたのに、またバブルが来てほじくり返したでしょ。それが、いけなかったんですね。SさんとHさん、俺が三羽がらすだなんて騒がれたけど、俺だけが今形を保っていられる状態ですよ。
 
  安定していると手打ち蕎麦屋を開くこととする
 
 だから財テク、そういうことにも手を切ってさ。家具屋も将来性がなくなってきたからやめてさ。何もしないとじっとしていられない方だから、蕎麦屋になってさ。蕎麦屋なら単価も低いし、大して売れないけどね。欲をかいた夢も見ないだろうって思って、蕎麦屋をやることにしたのよ。

 実は、平成4年に行田よしおっていうジャズの司会や評論をやっていた人が、市川に住む人たちで「全国うまいそばどころめぐり」というそばの食べ歩きの会を作っていたので、そこに入って毎月そばを食べに行ってたのね。

 そこで、信州の安曇野の周りが畑の農家レストランに行って、そばを食べたんですけどね。大してうまいそばとは思わなかったのに、ものすごく混んでいてさ。それで、蕎麦屋をやろうかと思ったんですよ。調べたら蕎麦屋はつぶれた店がなく、安定していたこともありますけどね。それで、平成6年にそばの教室に行って、そば打ちを習ったんですね。
                           (2)に続く

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