どんなときに共有したくなるのか? - 秘密結社「喫煙所」(第5通目)
以前、「美味しいものを食べたら、誰かと『美味しいね』って共有したいと思った」と言ってたよね。今日はそのことを聞いてみたい。
どんなときに共有したいって思うんだろうか。読んでしみじみ良かったと思う本、面白かった映画、嬉しかったこと、珍しい出来事、それらと出会ったとき、誰かと共有してみるのは楽しかったりする。
けど、自分の中だけで熟成しておきたい感覚や言葉として出さないでおきたい気持ちなども、確かにあるような気がするんだよね。それらは共有しないことで、じわじわと喜びが増すこともある。
共有することに慣れすぎてしまうと、自分なりの解釈を大事にできなくなってくることへの懸念もある。その塩梅というか、調和は難しいなぁと思う。くだらないことを喋るのもまた好きだからね。
ほかにも、自分のなかのドス黒い感情や怒り、毒などは、相手の負担や時には好感度を気にして共有することを留める一方で、たしかに「誰かに聞いてもらいたい」という欲求が芽生えたりする。
なるべくそれらを面白いものや表現(撮るとか書くとか)へ変換させたいと思っているけど、暴発してしまうこともあって。「聞いてほしい、だけど、これは、い、言ってはいけない…」と脳内板挟みイベントが発生したりする。留めるのか、変換するのか、そのまま言うか、相手の気持ちは考慮するのか、信頼は関係があるのか。そのラインは探り続けている気がする。
生まれた問いや袋小路に入ってしまった悩みなどは、誰かと共有することで、新しい考えに変化したり、やってみたいことが増えたりするから、わりと気軽に共有したいと思うかな。
タオさんは、どんなときに出来事や気持ちを共有したくなる?
もしくは、その葛藤を聞いてみたい〜
・・・
ゆるりと始めたこの文通、探りながらやっていくのが、意外と心地よかった。きっと何かを始めるためには、なるべく不備がない状態にしないといけない意識があったんだろうね。完璧主義というか。"上手くできない"じゃなくて、"とりあえず"っていう気持ちは、大事にしていきたいと思ってる。
【今回の問いに対する返事】
【前回の問いと返事】