言語とコミュニケーション
ドイツに住み始めて強く感じた言語についての話。
日本で私は家庭教師のアルバイトをしていた。子供達の勉強のサポートである。もちろん日本語で教える。
当たり前に思っていたその関係性はしかし、先生と生徒がお互いに日本語が扱えるという条件のもとで成り立っていたんだと気付かされた。
例えば、今、ドイツ人の子供に家庭教師をしろと言われたらできるだろうか?例え頭で全て理解できていたとしても、それをドイツ語で教えるのは難しいだろう。
もっと言うと、今自分の目の前に2人の子供がいる。1人は日本語しか喋れない子。もう1人はドイツ語しか喋れない子。2人に同じ問題が与えられているが、2人とも解くことができない。この時、自分には日本語しか喋れない子しか助けることができないのだ。
自分の住んでいた世界はとても小さかったんだ。
自分の能力は外国語が喋れないという理由だけでほとんど価値がなくなってしまうことだってあるんだ。
そう感じた。
と、同時に外国語を学ぶことはとても素晴らしいことだなと思った。
自分の戦えるフィールドが増える。
自分の持ってるものを生かせる機会が増える。
それ以外にも、自分が出会ってコミュニケーションを取れる人の数が増える。
異なる文化、異なる考え方をより鮮明に理解することができる。
そんなことを考えるだけでワクワクしてくる。
勉強が楽しくなる。
コミュニケーションに関することに話を移す。
私は今ドイツ人2人とシェアハウスをして暮らしている。毎日たくさんドイツ語で会話する。
今日何があったか。その時自分はどう思ったか。どう行動したか。何が楽しかったか。何を悩んでいるか。
彼らに何をしてほしいか。逆に何はしてほしくないか。
日に日に言いたいことが言えるようになってくる。言える表現が増えてくる。彼らが言うことも十分理解できるようになる。日本では日本人に囲まれて生きていて、そんなことはできて当たり前だったが、これらができると人生とても楽しくなるんだなと実感している。コミュニケーションってそれくらい大事なもの。
ただ、コミュニケーションとは話すだけが全てではないということも身をもって感じた。
ある日の帰り道、韓国出身だという自転車に乗ったおじいさんに話しかけられた。東洋人を久しぶりに見て嬉しかったのか、すぐそこに自分の家があるから来いと言われた。
彼は東京オリンピック(1964年)に韓国代表の柔道選手として出場したのだそうだ。日本に何回も行ったことがあり、読み方は忘れたが漢字を書けるという。
私は、ドイツの地で、初対面の韓国人と白い紙に漢字を書くことを通してコミュニケーションを取った。会話はなくてもお互いに理解しあえた。
「自分の思いを相手に伝えたい。相手の考えを理解したい。」
口にするとごく単純な、こういう思いが結局大事なんだなってことをこの経験から学んだ。
「今、自分には外国語を習得するための素晴らしい環境が揃っているということ。」
「外国語の習得は自分の人としての価値を高める上でもとても大切だということ。」
「外国語を習得して自由にコミュニケーションが取れることは自分の幸せにも繋がるんだということ。」
「ただ、コミュニケーションを取る上で1番大切な部分は忘れちゃいけないということ。」
そんな話でした。
最後まで読んでいただきありがとうございました。