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足りないという幸せ
人の命は地球より重いというが、人もい過ぎると人ゴミと化す
必要な量というものがあって、それを超えると必要とされていた性質は失われ、真逆のものとして存在することになる
例えば栄養
ないと生きていけないが、ありすぎると脂肪と化す
栄養は体という枠があるので、それによって必要量が決まり、体型の変化によって不足しているのかあり過ぎるのかわかる
だが、感情の場合、体のような枠と体型のような物差しがない
ずっと楽しみにしていたことが、実際に体験したら楽しくなかったということはよくあることで、それは要するに楽し過ぎたということだ
ずっと優しいと思っていた人と一緒に暮らして見たらつまらなく感じるのは、その人がつまらないからではなく、優しすぎるからだ
つまり、あり過ぎると、求めていたものは真逆の性質として認識される
だから、求めていた感情と違う感情が生じても、それに動じることはない
求めていたことは既に得ていて、少なくともあなたは損をしていない
あり過ぎた部分が反対の属性を示しているに過ぎないのだ
そう考えると、足りないとは最も充足している状態である
欲するものを欲している属性で欲することができるというのは最も幸せなことである
金が足りない、愛が足りない、筋肉が足りない、能力が足りない、社会的評価が足りない
人は常に不足を感じて生きている
だが、足りないことは不幸ではない
金があり過ぎて、その金を使うのに忙し過ぎれば、自分の能力を磨く時間はその分なくなる
金はあるけど何もない人になってしまうことから逃れられなくなる
愛がありすぎると愛は束縛や嫉妬に変わり、好きな人は邪魔な人になる
筋肉がありすぎるとその維持に全ての時間を費やすことになり、博物館のような人生を送ることになる
能力がありすぎるとそれを利用した人が山ほどいて、その対処にほとんどの時間が使われることになる
社会的評価がありすぎると他人の要求に応えるだけの人生となり、ストレスだけが溜まっていく
そう考えると、何もないとは真に自由であるということで、足りないとは求めるものを求めるものとして求めることができる幸せな状態であることがわかる
肝心なのは、何もなく、足りないからと言って不安になる必要はないということだ
何もなく足りないことがもたらしている幸せを、存分に享受すればいい
最も要らないことは、足りないからといって不安になることだ
将来への備えというが、それは将来やればいい
足りないことは幸せなことなので、先の楽しみを今のうちに刈り取ってしまうのは勿体無い
足りてしまったら足りないものへの憧れはそこでなくなる
一つの旅が終わるのだ
真の旅人は、旅とは帰る家を見つける過程、と悟る
足りないものが足りた時、そこにどんな変化があるというのだろう
結局、今いる場所にいるはずだ
みんな実はそこそこに幸せで、そこそこに満たされている
金を得て住む家が変わったとしても、家での時間の過ごし方は変わらない
いつかタワマンに住んでそこで毎日パーティだと思っていても、せいぜいそれは月に一度のお楽しみで、他の29日はそれでも不足を探す孤独な毎日であることは変わらない
変わるとしたら、さらに金が必要だとして怪しい投資話に引っかかったり、もしくは自らが持ちかけ、そこから被害者、犯罪者としての人生に変わるくらいだ
好きな女と結婚することは大事だが、「好き」の種類に気をつけるべきだ
自分の足りない何かをその女に埋めてもらおうとどこかで感じているのなら、その関係は破綻する
自分の不足が何だかわからないものは、そもそも自分がわかっていない
自分がわかっていないものが他人をわかることはできない
「好き」という気持ちで自分は何かを追い隠していないか?それを見極められる人間は少ない
鏡の向こう側にいる真の自分と対話できる人間は少ないからだ
筋肉はあった方がいいが、焦りを受け入れられるのは若い時だけだ
若い時、こうなりたい、という焦りを受け入れていた身体は、歳とともに変化する
精神が強いほど身体は焦りを受け入れることができるが、精神が強いほど身体の声は聞こえなくなる
だからどこかの時点で、やればやるほど身体を壊していく時がやってくる
だが強すぎる精神は、身体が壊れたことさえ認めようとしない
そうやって身体の崩壊は深刻さを増し、原因不明の大病を患うことになる
それを避ける唯一の方法は、やり過ぎないことしかない
精神が止めるのを許さなくても、そこはルールで止めるのだ
まず止めて、あとは余力を楽しむことで焦りを捨てる
能力がありすぎると、仕事が選べない
仕事を選べるほどの能力がないから仕事が選べないのではなく、仕事は選ばないと、永遠に選ぶことはできない
仕事というのは大抵の場合、誰かに使われることを意味する
対価をもらう仕事とはそういうものだ
他人のために自分の全てを費やすことは、仕事の姿勢として素晴らしい
だが、本当にやらねばならないのは、自分のために自分の全てを費やすことだ
他人のために費やしているのは、いつか自分のためにやるまでの時間稼ぎのつもりだろうが、時間は常に減っていく
時間とは命
自分の命を自分に取り戻すためには、対価の発生しない仕事をするしかない
対価がないのでそこには能力の査定はない
自分が納得できるかどうか?
それだけが評価基準の仕事
他人から足りないと指摘されるのではなく、自分が満たされるかどうかが全ての仕事
5分後に死ぬとしたら、そういう仕事をやるべきだ
5分後に死ぬのに、他人の評価を待っていて、それが何になるというのか?
だがそれは焦ることではない
他人の評価の呪縛から、まずは逃れるということだ
そして肝心なのは、自分の能力は自分のために取っておくということだ
人が最終的に求めるのは自分の社会的評価だという
だから至るとことに知らない人の銅像が建っている
銅像の元になった人物は銅像になることで自分の社会的評価を不可逆的なものにしたいのだろう
だがそれは、知らない人にとっては知らない人の銅像に過ぎない
銅像になるには、いろんな人の頼みを聞かねばならない
いろんな人の頼みを聞いたから、その見返りに自分の姿を形どり、死後も公衆に晒すことが許される
その人は銅像になりたくて生きてきたわけではないのだろうが、どこかで銅像になるしかない人生から足抜けできなくなったのだろう
偉人として自分の形を像にされてしまう以上、迂闊なことは一切できない
特に今は不倫で社会生命を絶たれる時代である
その行き着く先が銅像の破壊であっても、もはや驚かない
いろんな人の頼みを聞いた結果、銅像になることができたのに、その後、不倫がほじくり返され銅像が破壊
そんな時代はもうすぐ来る
二宮金次郎は歩きスマホ助長の罪で撤去された
自らは金は受け取らず、ひたすら飢えた人を救うために尽力したのに、時代の手のひら返しは甚だしい
だから、行きがかり上、やらねばならないのならやればいいのだが、社会的評価が欲しくてやったとしても、その評価は銅像になったとしても決して不可逆ではないのだ
結局、少し足りないくらいが最もいい状態を保てるのだから、それを不幸と感じたり焦ったりするのは勿体無い
同じ時間を過ごすのだから、そこに幸せを見つければ、そこで全ては満たされ、足りないという焦りの旅はそこで終わる