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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その一 おけいの一件始末 8
女は、けいと名乗った。
上州足門村百姓和助(わすけ)の娘で、17で同じ村の百姓松太郎(まつたろう)に嫁いだ。松太郎というのは少々ひ弱で、頼りないところはあるのだが、それでも何とか畑仕事をこなす男であった。普段は大人しく、夫から話しかけてくることも滅多になく、こちらが話しかけても頷く程度である。
「夫婦として張り合いがないと言えば、世間様から怒られるでしょう。全くその通りです。私も、その点には不満はごさいません」
女は袖で目頭を押さえながら言った。まだ生娘のような幼さが残る女である。まん丸な目に、薄っすらと上気した頬、少し厚い唇。ここに駆け込んでくる女は、総じて苦労を顔に滲ませているものだが、珍しく小奇麗にしている。だが、指先を見れば、やはり苦労人の手である。爪の先は割れ、逆剥けが血に滲み、手の甲はかさかさに乾いていた。
「ならば、何の不満がある」
清次郎は叱りつけるような口調で訊いた。
女が萎縮せねばよいが、と思っていたら、案の定、おけいは俯いたまましゃべらなくなってしまった。
「何の不満があると訊いておるんだ。夫に不満がなければ帰れ。ここは、お前の愚痴を聞くところではないぞ」
そう言って清次郎が立ち上がると、女は慌てたように口を開いた。
「暴れるんです。酔って暴れて、あたしを殴りつけるんです」
清次郎は黙って席に戻った。
ほっとしたのは、女だけではない。
「詳しく話せ」
「は、はい。その……、普段は大人しい人なんです。でも、お酒が入ると駄目なんです。ちょっとでも飲むと、すぐに態度が大きくなって、普段は言わないようなことでも平気で言って」
「例えば、どんなことだ」
と訊くと、女は耳の根まで真っ赤にした。
さすがに女を辱めるのはまずいと思ったのか、清次郎は先を話せと促した。
「その勢いで、お世話になっている方に喧嘩を売ったり、隣近所の家に怒鳴り込んだり、はては神社やお寺さんの物を壊してご迷惑をかけたり、その都度、あたしが頭を下げてまわるんですが、本人は酔いが醒めると全く覚えてないんです」
これもまた、よくある話だと惣太郎は思った。
「それだけでなく、あたしに手まであげて」
「しょうもない馬鹿亭主だな」
「はい、本当に酷い人なんです。でも、普段は良い人なんですよ」
「しかし、そんな話はどこにでもあるものだ。男なんてもんは、日ごろの仕事の憂さを、酒を飲んで忘れたいということもある。そのぐらい分かろうが」
「確かに分かります。でも、だからと言って、手をあげるのはあんまりじゃありませんか」
「だったら、酒を飲ませないようにすればよいだけの話だ」
「何度もそうしました。うちで造ってた濁酒(どぶろく)は全部捨てましたし、他所の家にも夫に飲ませないでくれと頼みました。でも、どこからともなく手に入れて、飲んでしまうんです」
「完全に癖になっておるな。そういう族(やから)は、なかなか酒から脱け出せん。その男の親やお前の親には相談しなかったのか。仲人や村役人たちには」
「しました。名主さんからも、きつく叱っていただきました。でも、全然効かないんです」
「全く駄目男だな」
「はい、本当に。でも、普段は良い人なんです」
「普段は良くても、酒を飲んで人が変われば、駄目な男は駄目だ」
「本当にその通りです。でも、お酒を飲まないときは、良い人なんですがね……」
「それでも、おぬしは耐えかねてここに走ってきたのだろう」
女は頷く。
「おぬしの耐え難い苦痛は分からんでもない。だがおぬしは、『女子三従の教え』を知らんのか。親に……」
どうやらこの件(くだり)、清次郎の決まり文句のようだ。これで、いったい何人の女を泣かせてきたのやら。新兵衛が言ったこと、満更嘘でもなさそうだ。
おけいも、ぼろぼろと涙を零す。さすがに、見ているこちらが居た堪れない。
清次郎はこのあと、懇々と説教を垂れ、女を泣かし続けた。
だが、結局は寺預りとし、妻の由利に女の世話を任せた。
女を苛めて楽しんでいるのだろうか。なかなかこの人の性格が計りかねる。
おけいの実父である和助への呼状は、惣太郎が書かせてもらった。
初めてのことなので筆が震えた。それでも、清次郎の手本を見て書きあげ、恐る恐る清次郎に見せた。
「大変結構です。さすがは惣太郎殿ですね。どこぞのお方と違って、筋がよろしい」
清次郎が誉めると、
「それは、拙者のことですかな」
と、新兵衛が返す。
「他にどなたがおられますか」
「いや、これは手厳しい」
新兵衛がぽんと額を叩く。すると、どっと笑いが起きる。
このふたり、案外良い仲なのかもしれない。